杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

書くべきものがない、ということ

今年3月3日に心筋梗塞で87歳で死去した勝目梓『小説家』(講談社文庫、2009年)の一部分を読んで、これは全篇をちゃんと読まねばならん小説だという思いがしている。

これは自伝小説だが、小説では「彼」として出てくる勝目は、同人誌「文藝首都」に身を置き、純文学を書こうとあがきまくる。

自分が迷路に踏み込んでいることは、彼にもわかっていた。それでも彼は書くことを止めなかった。朝五時に起きて、出勤までの時間は机に向かうということを欠かさなかった。遮二無二書いていれば、いつかは迷路の出口が見つかるはずだと思って自分を支えた。滝壺に落ちた者が、必死に水を搔くことによって、水面に顔を突き出すことができるように――。

けれども、「彼」には純文学として書くべき切実なテーマがなかった。

頭では書こう、書こうと思っているのに、実は自分を突き動かす切実な思いがない、つまり書くべきものがない…。朝五時に起きて書くほど、熱意はあるのだが…。

本書の解説で池上冬樹は、勝目と同じような経験をした作家として北方謙三先生を挙げている。勝目も北方先生も、共に純文学を諦めエンタメに転向した人で、そのきっかけを与えた一人が中上健次である。勝目の場合は、森敦もいた。北方先生が純文学に見切りをつけるに際して味わった辛さは、すでに色んなところに書かれている。

自分には書くべきものがない。この絶望的現実。