杉本純のブログ

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佐伯一麦と中上健次

佐伯一麦『蜘蛛の巣アンテナ』(講談社、1998年)の「夏の谺」は、徹夜明けの薄明の中で聞くヒグラシの声から、中上健次とのエピソードを想起する随筆である。

佐伯一麦は新宿の酒場で中上健次に会ったのだが、そこで中上にこう言われたという。

「そんなんじゃ駄目だよ、駄目。せめて今の倍は稼がなくちゃ、女房子供を養ってるとはいえないだろう。今あんたがやっているのは、学生さんのバイトと一緒」

佐伯はその時すでに電気工の仕事をしていたのものの、アルバイト感覚で本腰を入れておらず、それぐらい稼ぐつもりで働かないと労働は描けない、と言われた、ということである。

佐伯は奮起し、残業を増やした。仕事から帰ると酒を吞んでさっさと寝て、明け方に起き出して出勤までの時間を執筆にあてたのである。そのくだりの後、佐伯は

 振動ドリルを使った翌朝は、手が震えてペンがうまく握れない。そこで、苦肉の策で筆を用いた。それは、年寄りの写経めいていて苦笑を誘ったが、一文字一文字原稿用紙の升目に筆文字を埋めていきながら、やがて私は、自分の作物に手応えを覚えるようになっていた。

と書いている。

ここまで読むと、佐伯が毛筆で執筆を始めたのは、中上に言われて残業を増やすようになった後のこと、と思うだろう。しかし、佐伯は「木を接ぐ」で海燕新人賞を受賞してデビューした時、すでに毛筆による執筆をやっており、「年寄りの写経」のような自分に苦笑したことも「海燕」の新人賞発表号(1984年11月号)の「受賞のことば」に書いている。

「夏の谺」には中上と会ったのがいつなのかは書かれていないが、佐伯が「木を接ぐ」のデビュー以前に中上に会っていたとは考えにくい。それに、中上に説教されたエピソードは『私の「貧乏物語」』(岩波書店、2016年)の「文学的足場に立って」にも紹介されており、デビュー後に中上の言葉によって始めた苛酷な労働の体験が「ショート・サーキット」につながったと書いているのである。

「年寄りの写経」は中上に言われて始めたのではない。むろん「夏の谺」でも、中上に会う前にはまったくやっていなかった、とは書かれていない。