杉本純のブログ

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『渡良瀬』に出てくる「小説家」

佐伯一麦の『渡良瀬』(新潮文庫、2017年)には、主人公・南條拓が古河市の「宗願寺(そうがんじ)」に小説家の墓を訪ねるシーンがあり、面白い。

その小説家の墓の墓石には「寂」という字が彫られていて、それは作家が生前に書いたものだとあり、さらに作家の代表作が『暗い流れ』という長篇であることも書かれている。また北海道が故郷であることや、『一葉の日記』という評伝を書いたことも記されている。小説家の名は書かれていないが、その記述に当てはまる作家は言うまでもなく和田芳恵である。

もっとも佐伯は『暗い流れ』(講談社文芸文庫、2000年)の解説を書いているので、ちょっと佐伯や和田に詳しい人なら、これが和田だということはすぐ察するだろう。

面白いのはそこではなく、南條拓が「新人文学賞に応募したとき」のことが書いてある箇所である。

 拓が、新人文学賞に応募したとき、いくつもある雑誌の中から一つを選んだのは、その文芸誌の編集長が、小説家の代表作となった『暗い流れ』という長篇を書かせたのを知ったことも理由の一つだった。

佐伯は私小説作家なので、ここでは南條拓を佐伯本人と仮定しよう。

佐伯の実質的なデビュー作「木を接ぐ」は、1984年の「海燕」新人文学賞を受賞している。当時の「海燕」の編集長は寺田博である。寺田は元「文藝」編集長でもあり、たしかに和田に『暗い流れ』を書かせた。そのことは、和田の「自伝抄」を読むと分かる。

「自伝抄」によると、和田は当初、「群像」に長篇小説を書く予定で、それを楽しみにしていたが、寺田が訪ねてきて、長篇小説の計画がダメになったので代わりに書いてくれと頼んできた。寺田は、和田の生活を安定させるために長篇を書かせようとしていることを「群像」幹部から聞いていたようだ。

和田は当然「群像」に載せるつもりでいたが、寺田が懇願してくるし、河出書房が運営が行き詰まり会社更生法から立ち上がろうとしている状態でもあったため、「群像」の橋本という編集長に頼んでみた。橋本も河出の編集部に同情的だったので、和田の長篇を「文藝」に譲ることにした。

こうして『暗い流れ』は、「文藝」1975年10月号から1977年1月号まで16回連載された。

 寺田編集長は、私に自伝風な長編小説を書いて、森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』の現代版を心がけてほしいと言った。

と「自伝抄」にある。私の感触では、『暗い流れ』は『ヰタ・セクスアリス』よりずっと生々しいすごい私小説になっている。

佐伯に戻るが、上記を踏まえると、「木を接ぐ」の「海燕」新人文学賞への応募の背景には、和田芳恵寺田博という文学者がいたと見ることができる。

なお『渡良瀬』には、南條拓が新人賞の授賞式後の飲み会で編集長に「小説家」のことを話すと、編集長は「ああ、あんなに女好きな作家はいませんよ」と答えた、と書いてある。

和田はかなりの女好きだったのだろう。