杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

水と醴

美輪明宏さんが池上彰との対談で「君子之交淡如水」という『荘子』の言葉を引き、人間関係は腹六分がちょうどいい、と言っていた。君子とは高い教養と徳を備えた人のことで、そういう人は人間関係が水のように淡白、だから大きな争いごとに発展することなく関係が長続きする、という意味。私は十八歳の頃から二十年以上、何かと美輪さんの言葉に耳を傾けてきたが、「腹六分」はずっと言い続けられている。

「君子之交淡如水」はその次に「小人之交甘如醴」と続く。小人は知識も徳もない人のことで、そういう人は他人と醴(あまざけ)のようなべたべたの関係を持つ。だから一時期は熱く仲良くなるが、やがて感情的な摩擦が起きて破綻する。

私はぜんぜん君子ではないけれど、他人との交わりは淡くありたいし、腹六分目までで留めておきたいと強く思う。

これまでの人間関係を振り返ると、お互い感情を剥き出しにできる相手を「気のおけない」最良の友人と考えていたが、どうもそういう交わりは単にべたべた甘え合っているだけの、文字通り「醴」の如きものであったと思う。「気のおけない仲」と「醴のような仲」は、微妙に異なるのではないか。

醴の如き交わりをした相手とはほぼ例外なく酒が介在しており、ぐでんぐでんになるまで飲みながら感情のおもむくまま言いたいことを言い合っていた。翌日は昼まで眠り、起きても完全な二日酔いで頭が痛く、必ずといっていいほど後悔する。しかし不思議なことに、しばらく経つとまたその相手とぐでんぐでんに酔いたくなるのである。

お互い遠慮がなさ過ぎるため、やがて相手への不満も口にし始め、喧嘩になって破綻するのである。ここから関係が修復するのは極めて稀で、だいたい絶縁している。

また「醴のような交わり」の相手とは、「お前は俺の親友だ」というような「美化」が働いていることが少なくない気がする。立場が上下する間柄(上司と部下、先生と学生など)であれば、「俺はお前のためを思っているんだ」というような言葉が入り込み、過剰に交わることが正当化されている。

こういう関係は、本人の人生の進展を阻む。だから良くない。水のような淡い交わりにしたい。