杉本純のブログ

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「麦男」の存在

三か月くらい前、このブログで佐伯一麦大江健三郎のことを書いた。それは佐伯『蜘蛛の巣アンテナ』(講談社、1998年)の「ペンネームについて」の、佐伯が大江と会った時のエピソードをネタにしたものだったが「ペンネームについて」にはもう一つ、佐伯について興味深いエピソードが載っている。

それは、麦畑の絵を多産したゴッホにちなんでつけた「一麦」以前に「麦男」というペンネームを使用したことがある、というものだ。

ペンネームにどうしても麦の字が欲しかった私が二十の歳に初めて文学雑誌の新人賞に小説を応募したときに付けた名前は「麦男」というものだった。
 そのとき、ひそかに私は、それを「ばくだん」と呼んで、まさに文学の世界に爆弾を送り付けたような気持になっていた。あたかも、愛読していた梶井基次郎の『檸檬』の主人公が、丸善檸檬を置いて帰る行為に、爆弾を仕掛けたと夢想するように。
 予選通過者の中に名前は見付けたものの、当選には及ばず、そのときの若気の至りの爆弾は、あえなく不発に終わったのである。

佐伯がかつて「佐伯麦男」というペンネームを使ったことがあることは他の文章でも述べられているのだが、デビュー作である「木を接ぐ」は、すでに「佐伯一麦」で書かれていて、賞の発表前の一次選考通過作品の著者の一覧でも「一麦」になっていたことから、受賞後に名を「一麦」に改めた、というわけでもなかった。

その事実は確認済みだったのだが、上記引用文を読むとそれはさらに確定的である。「木を接ぐ」は、寺田博が編集長をしているからという理由で「海燕」新人賞に応募したわけだったが、引用文には「二十の歳に初めて文学雑誌の新人賞に」とある。1959年生まれの佐伯の二十歳の年は1979年なので、1982年に第一回を開催した「海燕」新人賞ではないのは確実である。