杉本純のブログ

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『海燕』新人文学賞創設の前後

福武書店30年史』(1987年)には、当然ながら同社の文藝誌「海燕」の新人賞創設の経緯が書かれている。

福武書店は1982年1月に創刊した「海燕」と単行本を柱として文藝路線を進んだが、それなりの成果を出したものの経営的には赤字になっていたようだ。

文芸路線を確立するためには,健全経営を果たす何らかの方途を開拓していかなければならなかった。その一つが,『海燕』の安定経営で,定期購読者を増やすことである。そのためにも『海燕』から有力な新人作家を生み出すことは,創刊以来の念願で,これに全力を投入した。

とある。もともと「海燕」の編集方針には「新人の発掘に意欲的に取り組みたい。」とあったが、新人賞創設はそのような出版事業者の使命を果たすことの他に、経営を安定化させる目的もあったのだ。いや、それらはそもそも表裏一体だったと見るのが正しいように思う。

新人文学賞の応募は「海燕」創刊号から始められた。締め切りは6月末日で、応募総数は1053篇。第1回の受賞者は細見隆博(「みずうみ」)と干刈あがた(「樹下の家族」)の二人である。干刈あがたといえば佐伯一麦と交友があった作家として知っているが、私はこの人の作品は未読。

『30年史』には第4回までの受賞者と受賞作が掲載されている。

第2回(1983年度)小田原直知「ヤンのいた場所」、瀬川まり「極彩色の夢」
第3回(1984年度)小林恭二「電話男」、佐伯一麦「木を接ぐ」
第4回(1985年度)柏木武彦「鯨のいる地図」、田場美津子「仮眠室」

この中で今もって最も活躍している作家は言うまでもなく佐伯一麦だろう。なお島田雅彦は「海燕」1983年6月号に『優しいサヨクのための嬉遊曲』を出してデビューしているが、新人賞は獲っていない。

『30年史』は続いて、「海燕」掲載作品が芥川賞の候補になった例を複数挙げ、その中から笠原淳「杢二の世界」(「海燕」1983年11月号)が第90回の受賞作になった時のことを記している。

発表の翌朝,『海燕』の編集部がある東京支社では臨時朝礼を開き,全員がわがことのように受賞の感激にひたったのである。

さらに、芥川賞以外の文学賞を受賞する作品が「海燕」から複数生まれたことを紹介し、同誌の日本文学発展への寄与を述べている。一方、そうした華やかな面がありながら「経営面では苦しい状況が続いている」とあり…文学がやはり儲からないものであるのを痛感させられる。。

1984年4月17日には「(引用者注:文学の)より大きな花を咲かせる土壌作り」の一つの場として計画された「福武作家の会」の第1回会合が開かれた、とある。ここには古井由吉が欠席したものの水上勉、笠原淳、干刈あがた島田雅彦らが出席した、とあり、社長も交えて文学談義などに花が咲いたそうな。佐伯は出席していないのか。それにしても、この会はその後どうなったのだろう。知りたい。