杉本純のブログ

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創作雑記17 悲劇にする必要はない

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ、とチャップリンは言ったそうだ。いつどこで誰に向かって言ったのかは知らない。

それはまったく正しいと私は思っていて、人間というのは往々にして、自分の悩みは深刻に見えるけれども他人の悩みは馬鹿らしいものに見えてしまうものではないだろうか。

小説を書いているとたまに陥ってしまうのが、描写し過ぎるあまり、どうでも良いくだらないことを深刻な悲劇のように書いてしまう、ということだ。それは歌手が歌っているうちに気持ちが入りすぎて泣いてしまう、というやつと似ている気がする。その様子は聴衆からは滑稽に見えるだろう。それと同じように、読者にとって取るに足らないことを大袈裟に、劇的な出来事のように書くと読者は興醒めし、主人公が単なる馬鹿みたいに見えてくるように思う。

これまで小説を書いてきたが、主人公を深刻な悩みを抱える悲劇的な人間に描こうとして、たいてい失敗した。否、全て失敗したと思う。私が大したことだと思っていたことがたいしたことなかったんである。読者に対し、さあここで主人公の悲劇を感じろ、泣け、と言わんばかりに綿密な描写を施すが、完成させてしばらくしてから読み返すとぜんぜん悲劇に見えない。ただ書き手が迫力で押し切ろうとしているだけなのが見て取れる。もう主人公も書き手もただの馬鹿にしか見えず、失望する。

それなりに辛かったはずの自分の人生が、べつに大したことはなく特別でもなかったと気づくのは、年齢が若ければ若いほど難しいはずだ。どうして難しいかというと、若い人間は往々にして自分を絶対視しており、自分を世界で一番偉い人間だと思っていて、自分が味わった苦しみは世界で最も深刻なものだったと受け止めているからだ。そういう傲慢さを卒業しない限り、恐らくまともな小説を書くことはできない。

私は自分の傲慢をなんとか客体化して卒業しようと、俺が体験した辛い体験なんて誰もが経験したものだ、それを悲劇だと思っていた俺はまったく馬鹿で滑稽な奴だったと自分を説得しようとした。その説得活動は、実は今も続いている。

自分をあるていど説得できると、辛かったことでもことさら深刻な悲劇のように書こうとはしなくなる。もちろん小説内の事実の叙述と主人公の心情の描写はそれなりにする。けれども適当なところで切り上げ、決して過剰には書かない。どこらへんで留めるのが適当でどこから先が過剰かの境界線を定めるのは難しい。私の経験では、書き手がストーリーの進行を忘れてしまい描写することに陶酔し出したら、もうそれは過剰になっている。過剰になってしまったら、それは後で読み返してみれば気づくと思う。一方で、これは過剰だと十分わかった上でわざと過剰に書くやり方もあるだろう。