杉本純のブログ

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自由になる技術

古代ギリシアには自由民と非自由民(奴隷)という区分があったようだ。それらがいったいどのような人たちで、どういう生活を送っていたのかは知らない。

リベラル・アーツという言葉があるが、その語義の起源は古代ギリシアにまでさかのぼるらしく、自由民として教養を高める技術、というものだったらしい。後年、19世紀後半、20世紀までのヨーロッパの大学制度では「自由七科」(文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽)のことがリベラル・アーツだった。現代では人文科学、社会科学、自然科学を横断的に教育する科目群、ということになっている。分かるような、分からんような…。

しかし以前テレビで、上記のような語義の起源に触れつつ、教養というものを「自由を得るための技術」だと説明していた人がいて、感銘を受けたものだった。そのことは、社会に出て働いている私が、自分自身のこととして感じる部分があるからだ。

私はサラリーマンがすなわち奴隷だとは思っていないが、会社や家族の奴隷に成り下がっているようなサラリーマンはいると思っている。サラリーマンに限らず、フリーランサーにだって、そういう人はいるだろう。そして私自身、会社勤めをする中で自分が奴隷みたいになってしまっていると感じることがなくはない。いわゆる社畜とか、家畜とかいうやつだ。

そういう奴隷状態から抜け出して自由を得るには、恐らく、教養を身につけるしかない。世の中の会社やお金の仕組みを知り、自分の能力を磨き、自分の思い通りになるよう行動を重ねるしかないように思う。それができてくれば、やがて自分の能力でお金を稼げるようになり、少しずつ自分の自由になるお金や時間を確保できるようになると思う。それはすなわち、自由を得るということではないだろうか。だから私は、教養とは自由を得る技術だと思うのだ。

ただし、「奴隷状態を抜け出したいから教養を身につける」のは正しくなく、自分の好奇心や欲求から勉強して身につけていくのが、本当の教養だと思う。そういう教養は、生活と人生を豊かにしてくれると思う。こんな社畜人生はいやだ、こんな家畜生活なんてまっぴらだ、という後ろ向きな動機からの出発は、奴隷生活からの逃亡に過ぎない(まぁ逃亡も時には必要だと思うが)。