杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

創作雑記23 「犬のように死ぬ」の是非

いま書いている小説の主人公はどうしようもない人間で、自身の不遇をはじめどんなことも他人のせいにして、自分の非力と怠惰を認めず、不満と愚痴ばかり口にしている。言うなれば『阿Q正伝』の阿Qであり、死ななくては直らない類いの愚かな人間である。

こんな人間を小説に登場させなくてはならんのか…とすら思うほどだが、これは私の半私小説的な作品であり、つまりかつての私自身が阿Qじみたどうしようもない奴だった。

現在のところ、主人公は散々な目に遭うものの周囲の人間たちの善意によって救われるストーリーになっている。しかし、逆にいえば、周囲の人間たちがこんなに甘いもんだからこの主人公は性根が曲がったままなわけで、けっきょくこれから先も甘い人生を歩むしかないんだろう、と思えてくる。こういう奴は一度、死ぬしかないんじゃないか…。そんな風に考えた。

閃いたのは、バルザックゴリオ爺さん』(高山鉄男訳、岩波文庫、1997年)下巻の訳者解説に載っている「犬のように死ぬ」というフレーズである。バルザックの創作ノートは一般に「アルバム」と言われるらしく、それには『ゴリオ爺さん』のストーリーの意図について次のような覚え書きが記されている。

善良な男―下宿屋―六百フランの収入―それぞれ五万フランの収入のある娘たちのために無一文となる―犬のように死ぬ

この「犬のように死ぬ」という言葉は、私の小説の主人公にもぴったりだと思った。しかしゴリオは私の小説の主人公と違い、善良だが異常なほどの父性愛を持つ情熱的な人間である。だからこそ「犬のように死ぬ」のが悲劇として成立するのだろうと思う。自己中心的で愚かな人間が小説の主人公になり、愚行の果てに犬のように死ぬというのは、小説としてそもそもどうなんだろう…という疑問が拭えない。