杉本純のブログ

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バルザックの献辞

バルザックの小説はたいてい献辞がついている。どの作品も、バルザックが親愛の情を寄せる人がその対象になっていて、各作品を献辞の相手について訳注の解説だけ読むのも、バルザックの交友関係の一端が窺えて一興である。

『従妹ベット』はダンテ注釈家ミケランジェロ・カエターニで、バルザックがダンテの詩の思想的骨組みを会得させてもらった相手である。『ゴリオ爺さん』は博物学者のエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールで、生物界における組成の統一性を唱えた人であるらしい。『農民』はパリの代言人シルヴァン・ピエール・ボナヴァンチュール・ガヴォー。バルザックの友人であり法律顧問をしていた人でもあって、バルザックが投機的に買った土地の清算に力を貸した人である。『谷間のゆり』は王国医学院会員の医学博士ジャン・バチスト・ナッカールで、パリで家が近かった関係からバルザック一家と親交があった。この人はさらに、バルザックの『クロンウェル』の朗読に立ち会い、友であっただけでなく主治医でもあった人で、金銭的援助はおろか、バルザックの臨終にあたり最後まで脈を取っていた。バルザックのステッキを形見の品として受け取ったそうな。

「ツールの司祭」は彫刻家ダヴィッドである。この人はバルザックの胸像を作った人だが、岩波文庫の訳注には、ダヴィッドは何度も胸像製作の希望をバルザックに伝えたが本人がまだその時期ではないと辞退したという、バルザックにしては珍しい謙遜のエピソードが紹介されている。

『「絶対」の探求』は陸軍給養局長の未亡人ジョゼフィーヌ・ドラノワ夫人で、バルザック家とドラノワ家はごく親しい間柄であったらしく、バルザックは借金に追い詰められた時しばしばドラノワ夫人に金を借りていた。『セラフィタ』はハンスカ夫人である。

手元の文庫をいくつか取ってめくってみただけだが、学者から藝術家、夫人まで、バルザックの色んな交友関係が見て取れて面白い。中には相手が誰だか分からないという奇妙なものもある。「知られざる傑作」の献辞である。「なにがし卿に」と書かれ、点線が四行にわたって記された後に「一八四五年」と書いてある。私は最初これを「知られざる傑作」の本文の一部だと思ったが、訳注には、何らかの意図があって姓名と献辞を伏せたのか、根拠のない冗談か、作品の意味を暗示したのか、それらがまだ研究されていないと書かれている。