杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

イージーモードという悲劇

島田雅彦の「私小説」だという『君が異端だった頃』(集英社、2019年)を読んで、もしこの小説の内容が事実そのままだとするなら、島田雅彦という人は「自分」というものがないんじゃないか…漠然とそんな風に感じた。

小説は「島田雅彦」が生まれてから、長篇『彼岸先生』を書くまでの半生記になっている。小中高大、小説家デビューしてからも実に色んなことが起き、人生が展開していく。学生時代から女にもてまくり、作家デビュー、アメリカ暮らしの最中に美女と浮気をして…とまぁ羨ましい限りだが、どこか、長いあらすじを読んでいるようだった。

これは私と小説の相性の問題なのだろうが、主人公はそれなりに苛酷な体験もして苦しんだはずなのに、いずれもさらっと通り過ぎていくだけで、どうも主人公の心に深刻さを伴って食い込んでこない、というか、高い情報処理能力と巧みな弁舌とで切り抜けていっただけのように見える。そのことは文学作品として大きな欠落であるように私には思えた。

妻に浮気がばれて言い争いになるところが最大の修羅場だが、ここはさすがに真に迫る感じがあると思ったものの、その後「これから長い償いの日々が始まるのだなと思い、君は島尾敏雄の『死の棘』をじっくり読み、彼女の怒りを鎮める具体的な方法を研究することにした」とあって、お利口というかなんというか…。

どんな課題も理知と計算で答えがはじき出され、手早く処理されていく。芥川賞はついに取れなかったが、どうもさらりとしている。全般的に執念とか、怨恨とか、痛切さとか渇望とか憤怒とか、人間らしい「臭み」がない。もし、確かな「自分」というものを携えていれば、小説を書くのも、賞が取れないことにも、また女関係のさまざまな修羅場でも、人生が動くほどの事態に差し掛かった時には痛みや喜びといった情動が起こるだろう。それがどうも、さらっと流れていくだけのように感じるのだ。

島田の実際の人生がどうだったのかまでは知り得ないが、少なくとも私はこの小説の描写的な部分に接してそう感じてしまった。数学の能力が高い人は人生がイージーモードになるらしい。なるほど本作は、高い知能を持つ「島田雅彦」が「人生が空虚なイージーモードになってしまった」という悲劇を歩んだ、と読むこともできるかも知れない。ただ私としては「長い償いの日々」の方を読みたかった。

島田はかつて、自分は自我があやふやだから私小説を書かない、と述べたそうだが、私は今回島田の「私小説」を読んで、上に述べた点から、島田には自分というものがないのでは?と改めて思った。