杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「電気工小説」

「新潮」1990年11月号に、島弘之による佐伯一麦『ショート・サーキット』(福武書店)の書評「天職と天命の証しを求めて」が載っている。

何ということはない、単行本に収録された数篇の短篇についてのごく簡単な書評を一ページにまとめただけで、書評というより感想文に近い。前半には島自身の人生観めいたものが書かれていて、それが書評の導入になっているのだが、やたら長いし、もっと他に書くことがあっただろうと思う。

さてこの書評の中に「主人公の境遇と作者の筆運びを考え併せると、電気工小説はかなり安定してきたと言える。」とある。なるほど佐伯の初期の私小説は「電気工小説」で、言わば「電気工もの」になる。

佐伯の小説に対しこういう言葉が出てくることは、ある意味でとても示唆的ではないか。つまり、例えば西村賢太には「秋恵もの」があり、檀一雄なら「リツ子もの」?がある。

「〇〇もの」は、その作家が複数の創作においてどんな主題を扱っているか、何を意識的に書いているかを表していると思う。西村なら「秋恵」との関係を描くものがあって、だから「秋恵もの」なわけで、しかし佐伯の場合「前妻もの」などと言われるのを聞いたことがない。つまり佐伯の場合、人間関係よりも、電気工である主人公自身の仕事の様子を中心に描いているので(もちろん他にも登場人物はいるが)、「電気工小説=電気工もの」と言われるに至ったんじゃないか。