杉本純のブログ

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佐伯一麦の夫婦観

佐伯一麦の「木の一族」辺りまでの私小説を読むと、佐伯自身の一回目の結婚がどういう経緯をたどって破局したかを、ある程度想像することができる。私小説群が事実そのままであったならば、その結婚はかなり幼いものだったのではないか、と思える。ただし、小説の多くは三人称体とはいえやはり私小説なので、佐伯自身と思われる主人公の視点で描かれており、妻側の心情は奥深くまでは見えづらいのが正直なところである。

さて、朝日新聞の夕刊に1997年11月4日から2003年3月26日まで連載された「一語一会」から78編をまとめて一冊にした『一語一会 人生に効く言葉』(亜紀書房、2005年)には、佐伯による、自身の夫婦観を窺わせる記事が載っている。連載は、各ジャンルの人が、文字通り人から言われた忘れられない言葉について書いたものだ。

佐伯の記事は、1999年6月1日に載った「これはプライベートなものだから」で、その言葉は、ノルウェーのテキスタイル作家ビョルグ・アブラハムセンの夫・ヘルゲからの手紙に書かれていたもの。アブラハムセンの作品に興味を持った佐伯が、実物を見たいと本人に手紙を出したらヘルゲより返事があり、妻は死んだが妻について知りたいことで私に手伝えることがあれば幸いだ、と書かれていて、佐伯がアブラハムセンに出した手紙は封を切らずに返されてきた。どうしてヘルゲが開封しなかったのかというと、「これはプライベートなものだから」という理由だったのである。

ヘルゲの対応について佐伯は当初、個人主義が基本である西欧らしいと思ったり、アブラハムセン夫妻の仲がすでに冷め切っていたのではないかと邪推したりする。しかしヘルゲに実際に会い、後者の疑問は撤回される。建築家であり美術にも詳しいヘルゲは、ビョルグが作品をつくる時は二人で深夜までよく議論したと言い、「カップルは、ベッドの中だけで会話をしてはいけないよ。男と女は簡単にわかりあおうとしてはいけない。とことんファイトしなければ」と言った。

そのようなエピソードを紹介する文面からは、佐伯がヘルゲの言葉に感銘を受けたことが窺える。そしてそのような佐伯と、「木の一族」前後の私小説群に描かれた主人公には、やはり大きな隔たりがあるように感じる。