杉本純のブログ

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佐伯一麦「枇杷は九年で」

「視点植物」

「群像」2月号に佐伯一麦の短篇「枇杷は九年で」が掲載されました。

小説の舞台は、仙台の集合住宅にある「早瀬家」の庭。その庭に、「十一年前の春に、配送のトラックで長崎から東京へと長旅をし、大田市場を経て新宿の老舗の果物店へと運ばれ、木箱に入った姿に目を留めた老年の小柄な男性の依頼で、仙台のこの早瀬家へと送られて来た」という枇杷の種が、最初は植木鉢に埋められ、やがて芽吹いて庭に移され、木に育っていきます。

小説の語り手はこの「枇杷」で、庭から見える早瀬家の風景、作家であるらしい早瀬とその妻の柚子との生活が断片的に語られます。枇杷自体は長崎からやってきて、地震の影響で起きた地盤沈下への対策として敷地の修繕工事をするために移植されたりと、数奇な運命です。また、隣の枝垂れ桜の枝に毛虫がついて心配するなど、感情もある。ただし木なので一言も発することはなく、『吾輩は猫である』のように人間をただ観察していて、小説そのものに明確な筋はありません。

枇杷は「視点人物」ならぬ「視点植物」といったところでしょうか。後述しますが、この「早瀬」が佐伯自身であることは間違いありません。佐伯は随筆などでも時々、視点を自分以外に移して自分を観察しているような作品を書くことがありますが、本作もその一つといえそうです。

私小説

枇杷が早瀬家にやってきたのは、「十一年前の春」とあるので2011年かと思いましたが、小説の冒頭には「秋日和」という記述があるため当時は2021年と考え、11年前は2010年と判断するのが妥当でしょう。

佐伯の随筆集『月を見あげて』(河北新報出版センター、2013年)を見ると、奇しくも「枇杷は九年で…」というタイトルの、2011年3月4日の河北新報夕刊に載せられた文章があり、佐伯家に枇杷がやってきた経緯が書かれています。

昨年の梅雨時に、木山捷平のご子息の木山萬里氏から果実の枇杷を頂戴した。そのときに、食べて吐きだした種を五粒ばかり戯れに植木鉢に植えてみたのである。
 二、三週間経っても芽が出ず、もう駄目かと思っていた七月に入った暑い日、土を撥ね除けるようにして頭をもたげている芽を連れあいが見つけた。翌日、さらに二つの芽が出た。

小説の記述とだいたい一致します。小説の「老年の小柄な男性」は「木山捷平のご子息の木山萬里氏」ということになります。

早瀬は書き物を仕事にしていることが、小説の記述から窺えます。クラシック音楽が好き。柚子は草木染をしており、かつて夫婦でノルウェーに暮らしたことがある。いずれも佐伯の実人生と重なります。

いうなれば「枇杷は九年で」は私小説になるわけですが、語り手はあくまで枇杷です。準私小説とでも呼ぶべきでしょうか。

佐伯の私小説は、主人公の名前が「斎木」など数種類あるはずで、この「早瀬」も探せば別の作品にも登場しているかも知れません。

妻の柚子もそうかも知れませんが、『月を見あげて』の「枇杷は九年で…」の最後に、果物が芽生えてから実を付けるまでの目安を表した諺「桃栗三年柿八年」について触れている箇所があり、「柚子」も登場します。「桃栗三年柿八年」はその後に「枇杷は九年でなりかねる、梅は酸い酸い十三年」と続き、さらに「柚子の大馬鹿十八年」と続くとのこと。

小説は、枇杷が芽吹いてから十一年目にしてやっと蕾をつけたところで終わります。