杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯一麦「プレーリー・ドッグの街」

佐伯一麦の「プレーリー・ドッグの街」(初出:「新潮」1989年6月号)は、今は新刊では手に入らないようだ。このたび『ショート・サーキット』(福武書店、1990年)に収められているのを図書館で借りて読んだが、これは文庫の方も絶版になっている。

『ショート・サーキット』には表題作の他に「端午」(初出:「海燕」1988年2月号)とこの「プレーリー・ドッグの街」の計三篇が収められている。「端午」は『ショート・サーキット』の講談社文芸文庫の方(2005年)に入っているので今も新刊で読むことができる。

さて福武書店の方は三篇とも電気工を主人公とした私小説である。いずれも都会の底辺で蠢いているような電気工の労働の模様を描いており、私は好きである。特に「プレーリー・ドッグの街」は後年の中篇「一輪」(初出:「海燕」1990年12月号)と同じく風俗嬢との交流を描いたもので、地中に網目状に広がる巣穴のトンネルの中で生きているプレーリー・ドッグを、都市の下層で生きる電気工と風俗嬢の姿に擬えた、寂しいが味わいのある作品である。

佐伯は単行本の「あとがき」で、収録の三篇の発表に際しては色んな人の世話になったと書き、「プレーリー・ドッグの街」については「『新潮』の風元正氏の叱咤激励と風俗産業の女たちの妹の力に負う。」と書いている。「妹の力」といえば柳田國男で、そういう本もある。女性の霊的な力を指すようだが、佐伯が柳田の本を読んだのか、風俗嬢を本当にそういう信仰的な目線で見ていたのかは、わからない。

またこの作品には「田島」という電気工仲間が出てくる。田島は心臓病を発症して田舎に帰るが、それを隠して付き合っていた女と結婚できず、落ち込んだ末に死んでしまう。仕事仲間の死は「端午」でも描かれており、一瞬、田島の死と同一のエピソードではないかと疑ったが違っていた。

さて「プレーリー・ドッグの街」については「群像」1989年7月号で高橋英夫畑山博松本健一が創作合評の対象作の一つとして評し合っている。三人ともおおむね好意的に評価しているのだが、主人公とその仕事をプレーリー・ドッグのイメージに重ねるのは無理があるだろうと述べている。

また作品の冒頭、繁華街が朝も営業しているのを描写する箇所、

 まだ朝の八時前だというのに、その街に建ち並んでいる店々の看板には明かりが灯っていた。

とあるのに高橋が疑問を呈し、松本は「これは意味がわからないですね」と笑っている。私もそこは読み始めた途端につまづいたが、読み進めていくと風俗店が風営法に対抗するために開業時間を早めたとあり、普通に飲み込めた。松本は冒頭の一文の「必然性」に言及しているけれど、私は書き出しの文章の「必然性」を意識したことはあまりない。佐伯は当然この合評を読んだのだろうが、単行本では直していない。