杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

情報かモノか

大江健三郎『新しい文学のために』(岩波新書、1988年)に面白い箇所があった。

ヨーロッパから輸入した古家具が、倉庫に十個おいてある。倉庫に品物がちゃんと届いているかどうか、輸入商社の人間が確かめに来る。かれは伝票の数値にしたがって——つまり代数学によって——、十個の包装されたものがあることを、それと認め知ることができれば、目的を達する。
 ところが芸術家は、数量などは二の次に——もとより数があるかどうか、それと認め知ることも格別邪魔にはなるまいが——、倉庫に入りこみ包装を解いて、古家具のいちいちをはっきり眼におさめ、さわってみもするのでなければ、満足しない。自分の眼で明視し、ものを感じとることをするまでは、伝票の数値とか、ここに包装が十個あるじゃないか、というような挨拶では、ものを見たとは感じとることができぬと、倉庫番にむけていいはるはずである。

これは異化について説明しているくだりだが、たしかに、小説で扱う事物についてはきちんと実感を持って書くべきだと私も思う。もちろん、作者が実感を持って書いているかどうかは、作品が面白いかどうかには関係ないし、読者が実感を得るかどうかも別問題だろう。

以前の私は、映画の脚本とか小説に登場させるシーンを全てこの眼で見なくてはならないと考えていた。大岡昇平の『現代小説作法』(文藝春秋新社、1962年)にはモーリヤックの「私は、私の小説の舞臺となる家を、その隅々に至るまで、まざまざと思い浮かべられぬ限り、小説を構想することができない。最も人目につかぬ小徑でも、私に馴染み深いものでなけばならず、周圍の一帯の土地も私の知っているものでなければならない」という言葉を引用し、モーリヤックは日本の私小説家とかなり近いところにいるようだと言っているが、私は大江の言ったこととモーリヤックの考えは通底するように思うし、まったくその通りだとも思う。

深いことはよく分からないのだが、それを小説の言葉にしていく場合、それを単なる情報とするか、色彩や匂いや重みを持ったモノのようにするか、ということが問題になってくるように思う。