杉本純のブログ

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盆に読んだ「新世帯」

八木書店徳田秋聲全集 第25巻』(2001年)の月報には佐伯一麦の「暮れに読む『新所帯』」が載っている。これは、佐伯がいかにして秋声の文学に出会い、慣れ親しむようになったかの経緯を述べつつ、秋声作品を批評してもいる随筆である。佐伯はこれに先立つ1996年、新潮社100年記念の「新潮」7月臨時増刊号の「一頁近代作家論」で秋声を担当し、「タタキの触感」という随筆を書いたのだが、「暮れに読む『新所帯』」の内容は、これとかなり重なっている。

さて、佐伯は自分が所帯を持った頃から秋声の「新世帯」を毎年大晦日に読んでいたとのことで、「新世帯」と秋声文学は佐伯とその初期作品を読む上で重要なキーワードになるだろうと私は思った。それで、この盆に読んだ。岩波文庫、1955年。

今回はじめて読んでみて、叙述といい描写といいまったく無駄のない見事な行文で、驚かされた。本作は明治41年(1908年)に発表された小説だが、今でもぜんぜん古くない感じを受けるのは、装飾の類いを徹底的に排した文章であればこそだろう。

主人公である新吉の人柄を説明する描写が前半にあり、ここも実に巧いと思ったのだが、私は個人的にここで新吉に深い親近感を覚えた。結婚をするにあたり、小野という友人が婚礼を盛大にしようと豪華な品々を注文してしまい、それにげんなりする辺りの描写。

小野の見積書を手に取つては、獨(ひとり)で胸算用をしてゐた。此處へ店を出してから食ふ物も食はずに、少許宛(すこしづつ)溜めた金が旣う三四十ある。其を此際大略(あらかた)噴出して了はねばならぬと云ふのは、新吉に取つて些と苦痛であつた。新吉は恁うした大業な式を擧げる意はなかつた。竊(そつ)と輿入をして、私(そつ)と儀式を濟ます筈であつた。强(あなが)ち金が惜しいばかりではない。一體が、目に立つやうに晴々しいことや、華やかなことが、質素な新吉の性に適はなかつた。人の知らない處で働いて、人に見著からない處で金を溜めたいと云ふ風であつた。どれだけ金を儲けて、何れだけ貯金がしてあると云ふことを、人に氣取られるのが、旣に好い心持ではなかつた。獨立心と云ふやうな、個人主義と云ふやうな、妙な偏つた一種の考が、丁稚奉公をしてから以来(このかた)彼の頭腦に强く染込んで居た。小野の干渉は、彼に取つては、餘り心持好くなかつた。と言つて、此男が無くては、此場合、彼は幾(ほとん)ど手が出なかつた。グヅグヅ言ひながら、分晰(きつぱり)反抗する事も出來なかつた。

人の知らないところで働いて金を貯めたいと思う、独立心というか個人主義のような偏った考え。うーむ…これはまさしく私である。。その後の、結婚後の妻との生活の様子などを読んでも、新吉は私そのものではないかと思わせられるところが多かった。

独立心とか個人主義という言葉は、私の知る限り、近代および近代文学のキーワードの一つである。上記引用箇所を読みながら私は、やはり自然主義文学とか近代文学というのは人間の個人主義的な側面や私的な領域に踏み込むもので、新吉のような凡庸な小物を描くものだ、と思って、深い感銘を受けた気分になった。

ところで、この作品で不自然に思った箇所がある。小野が拘引されてから妻のお國が新吉の家に転がり込んでくるところなのだが、その理由として書かれているのは、お國には東京には親がいないので世話を頼む、という手紙が小野から来ることくらいなのだ。そういうことって、あの時代、果たしてあり得たのだろうか。。

小説は、新吉とお國の関係が危ない方へ行こうとするのを匂わせつつ進行するが、妊娠したので実家に帰っていた新吉の妻のお作が戻ってきて(子供は流産)、お國は出て行き、お作が二人目を妊娠したところで終わる。そのことについて小説では特に何も語られないが、新吉の、鈍くさくて詰まらないお作から美人のお國へと乗り換えるという夢が潰えて、平凡で地味なお作との生活が戻ってくるという、個人主義者の一種の滑稽な敗北が描かれているようにも見える。お國との夢などはどこにも書かれていないのだが、男の私としては、そうも読めるのだ。秋声の研究本などに「新世帯」のそういう解釈について書かれていれば、読んでみたい。

子供ができたために結婚した佐伯一麦は、秋声の「新世帯」が、自分の「新所帯」の原型と読めた、と言っている。その辺の事情は、また別に考えてみたい。