杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

世を忍ぶ仮の姿

以前、大学で教鞭を執っているが本職は編集者である人が、今こうして大学の先生をやっているのは本当の自分じゃない、世を忍ぶ仮の姿だ、という風に言っていた。

「世を忍ぶ仮の姿」と聞くと、一瞬、かっこいい感じがする。世間から隠れて何かしている人の、世を上手く渡っていくための仮の姿、という意味だ。スパイか革命家か、別の何かか。いずれにせよ、裏で何らかの活動をしていることが、他人からするとミステリアスに見えるのだろう。その編集者は学生運動をやっていたことがあり、社会人になってからも革命思想のようなものを抱えながら仕事をしていたのかもしれない。

私も以前は、創作をしている姿が本当の自分であり、会社員は世を忍ぶ仮の姿と考えていた。高齢者が中心の文学同人に所属し、作品を書けども書けども芽が出ず、会社員としても中途半端に過ごしながら、それでも一丁前にプライドと自意識だけは高くて、いつか自分の作品で世の中をびっくりさせてやるから見てろよ、などと考えて過ごしてきた。革命思想などではないが、それと似たような気持ちだったと思う。

しかし本当に作品を世に問うて、世に認められ、世に出て行こうとするなら、裏の活動を隠す必要はない。むしろオープンにして情報を発信し、多くの人にキャッチしてもらうようにする方が賢明である。

一方、本当の革命家ならスパイ活動とか戦闘の準備をするだろう。そういう人はもしかしたら一時的に仮の姿で世を忍ぶかも知れないが、だとすると、仮の姿で世を忍んでいる人は世の中に大っぴらにできない反社会的なことをしているのだから、今の自分は世を忍ぶ仮の姿だなどと世間の人に言うはずがない。

編集者にせよかつての私にせよ、単に自意識過剰の気取り屋だったのだと思う。今の俺は本当の俺じゃない、もっとすごいんだと思いたいけれどもそれを証明できず、かといって自分の非力も受け入れられない、子供じみた情けない人間だったのだ。ちなみに私は当ブログで過去に一度、今の自分は世を忍ぶ仮の姿だと語った。