杉本純のブログ

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「二人の老サラリーマン」2

司馬遼太郎『ビジネスエリートの新論語』(文春新書、2016年)の「二人の老サラリーマン」は、司馬が出会った文字通り「二人の老サラリーマン」のエピソードが書かれている。

二人目は高沢光蔵という、新聞社の地方版を作る部にいた人だ。元は「新聞発行人」という肩書きを背負い、とはいえ本当の発行人ではなく、新聞記事に政治的な問題があった時には社を代表して軍人に引っ張られて「油をしぼられる」役を務めていたというから、かなり特殊なポジションだったようだ。

司馬はこの人の相貌に、戦争中に蒙疆で見た隊商の隊長らしき人の面影を見出し、好感を持った。やがて別れてしまうが、強く印象に残る人物だったようで、本書の文章からは愛惜の念が感じられる。

高沢という人はそもそも自分は記者職が向いていないと自覚していたようだ。

「煮つめた云い方をすれば、新聞記者とは勝負師だす。勝負の鬼にならんけれゃええ記者とはいえまへん。わしゃ若いころ早稲田にいたが、どうもあの早慶戦というやつがわからんかった。つまりなぜああみんなが熱狂するのか今でもわからん。いうたら、勝負の音痴だんな。こんな男に新聞記者が勤まるはずがない。それですっぱり廃(や)めてしもた」

と語ったそうな。この「煮つめた」の使い方は正しい。近年私は「煮詰まる」を「行き詰まる」の意味で誤用しているライターを何人も見かける。

さてこの「新聞記者とは勝負師」は、なるほどそういうものかもと思った。ライターも、インタビューをしている時間は相手と言葉を使って切り結ぶ戦いのようなものだし、竹中労の本を読むとルポライターにもそういう勝負師の側面があるのが分かる。新聞記者も、自らの足で巷を巡り、特ダネを仕入れて世に発信するという、一種の勝負をしているのだろう。

つまり、物書きは勝負師だと思う。自ら見つけた題材に賭け、時間と労力を注いで読み物にして世に発する。それが当たるかどうかは、究極は運次第なのだ。勝負師をやる覚悟がないと、物書きは務まらないかもしれない。