杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

目的と手段の倒錯

立花隆『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書1984年)は物書きをやる上で有益な情報が多いので、たまにページをめくって気になるところを読み返している。

その中に「ある“整理マニア”の悲喜劇」という小見出しがついた文章があるのだが、これは東京に住む立花の元にわざわざ大阪からやってきた二十代の男の話を元に、目的のない資料整理が無益であることを述べている。二十代の男は、実に見事な資料整理をやっているが、それに生活のほとんど全てを捧げていて、けっきょくどのような形にもまとまっていないのである。他に立花は、フローベールの『ブヴァールとペキュシュ』や、読書の金を稼ぐため猛烈に働いたあげく年を取って読書ができなくなった老人の話を紹介している。

私も資料集めをよくするが、もちろん目的なしに集めることなどない。簡単に入手できる資料なら手早く手に入れて、ブログネタにしたり、将来、書き物としてまとめるためにストックしたりしておく。資料は溜まり、いずれ整理しなくてはならないが、目的ははっきりしている。

一方で、二十代の男や老人の気持ちは、分からなくはない。というより、私もかつてはその男や老人と同じようなことをやっていた。新聞を読み、文学関連のネタが出てくれば全て切り抜いてスクラップしていたのである。とはいえ、朝日新聞だけでしかやっていなかったので、二十代の男がやっていた資料整理とは比べ物にならないほど情けないものだった。とはいえ、何年か続けて、スクラップブックの冊数は多くなったものの、けっきょくどんな形にもまとまらず、棚を占領していくばかりだった。そして挙句の果て、私はそのスクラップブックを全て廃棄した。

老人のような目的と手段の倒錯も、身に覚えがある。私は物書きになるために上京し(神奈川だが)、学校に入って勉強したが、卒業の時点ではその目的は達成できず、物書きになるためまずは生活を立て、人生経験を積もうと、会社に就職した。今に至るまでその状態は続いているわけだが、仕事を手を抜かずに一生懸命やるうちに、そもそも自分はいったい何のためにこの会社に入って仕事をしているのかを忘れそうになることがある。いや、忙しさのあまり忘れてしまいそうになるのである。このまま一生懸命に働いて定年までいって、けっきょく物書きになれなかったら…と思うと索漠たる気持ちになる。

もちろんプロの物書きはなろうと思ってなれるものではなく、書いたものを発信し続けて誰かに認めてもらわなくてはならないから、目的を実現しないまま定年までいってしまう可能性はあるが、それは広い意味で目的と手段の倒錯に終わったというのかも知れない。

私の知る人にも、膨大な蔵書と資料を揃えながら、けっきょく何も形にできないまま定年を過ぎてしまった人がいる。物書きや研究者の類いは定年などないのでその言い方はおかしいのだが、老境に到ってもはや成し遂げる体力も気力もないものと思われる。準備を入念にやるのは大事だが、実行して世に問わないのは勿体ない…否それどころか、まったく無駄な愚かなことだと思う。