杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

啐啄同時

先日、ある経営者の話を聞く機会があり、そこでその経営者が「啐啄同時」という言葉を使っていた。新しい商品やサービスは、いかにすばらしくても必ず受け入れられるとは限らず、消費者がそれを望み、市場にニーズがある時に出すことで初めて受け入れられる。そんな意味のことを述べるのに「啐啄同時」を使ったのである。

本来は、何かをするのに絶好のタイミングであることを指す。「啐啄」は、仏教で悟りを開こうとしている弟子に師が教示を与えて悟りの境地に導く、といったことであるらしい。元々「啐」は、卵の内側の雛が声を出して殻から出ようとすることを指し、「啄」は親鳥が殻を突いて雛が出てくるのを助けることを意味する。

昨日このブログで、扉は開くか、開けるのか、について書いたが、「啐啄同時」にこじつけるなら、内側の人が開けようとしていない限り、扉の向こうにいる人は鍵を開けてくれない、ということだろうか。内側から扉を開けようとするのは、小説家ワナビなら、作品を書いて世に問うということだろう。向こうから鍵を開けるのは、声をかける出版社である。若くしてデビューして後は鳴かず飛ばずという作家がいると思うが、これなどは声をかけられるのが早すぎたということかも知れない。親鳥の方が殻を突き破ってしまって未熟な雛が出てきたことに例えられる気がする。遅すぎるということは実際にあるのかどうか分からないが、抜け出ようとする力が弱っていたら、それはそれで出てきても長く生きられないかも知れない。

いずれにせよ、開いた扉の向こうで精一杯やるしかないのだろう。生き残る人は、生き残る。