夏目漱石の小説を読むと、明治という時代が始まって、過去の封建的な思想が形式的にも本質的にも弱まり、ある種の「男」がある種の「衰弱」を来したのが読み取れる。それは漱石に限らず、鷗外の小説にも、あるいは田山花袋や谷崎潤一郎などの作品にも感じ取れることだろうと思う。
現在はそれから一世紀過ぎているわけだが、その間に男がどう変遷してきたのか、私にはまるで分からない。しかし、私は自身の生活の不自由さを考える時、漱石たちの作品に描かれたある種の「衰弱を来した男」が、自分と無縁のものとは思えない。むしろ、自分の精神上の血族のように感じられなくもないのである。そしてそれは恐らく、私自身が根本的なところに封建的な思想を持っているからではないかと考えている。
樫原辰郎『『痴人の愛』を歩く』を読んで、私は、谷崎ないし主人公の譲治が、そうしたある種の衰弱状態から新時代にふさわしい方法を用いて逆転復活を遂げるのに成功したように思えた。
そこには創意工夫と果敢な挑戦があったはずで、私もそれを見習いたい。男の戦いは終わらないのだ。