杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

文化格差

樫原辰郎の『『痴人の愛』を歩く』(白水社、2016年)が面白い。

谷崎潤一郎の代表作の一つ『痴人の愛』を巡る推察と調査。冒頭は、作品の舞台を歩く中で巧みにその世界に引き込んでいく、上等な文学紀行の趣がある。

その中に興味深い記述があった。『痴人の愛』主人公の譲治と、女主人公のナオミの浮気相手になる慶應大学の学生との間には「一種の文化格差」が生じている、という記述。

 譲治の出身校である蔵前の高等工業とは、東京高等工業学校、現在の東京工業大学である。学歴では、慶應の連中に決して劣らぬエリートなのだが、おそらく苦学生だった譲治は、彼らのようにキャンパスライフを謳歌した経験がなく、ハイカラなセンスに欠ける。だから、地方出身者である譲治と彼らのあいだには一種の文化格差が生じているのだ。

地方出身、苦学生、キャンパスライフ謳歌の経験なし、ゆえにハイカラなセンスに欠ける……この図式には、いろいろと感じるところがあるし、考えさせられる。

私自身、地方出身だし、奨学金で映画学校に行ったし、まぁ大学でも専門学校でも神経衰弱状態で悶々、鬱々として過ごしたので「キャンパスライフ」などとは程遠かった。それで「ハイカラな(流行に対する)センス」が著しく欠けている。

同じ映画学校の学生でも都会での学生生活を楽しんでいる連中がおり、彼らとの間の「文化格差」をしばしば感じた。センスや価値観…いやそもそも住んでいる世界がぜんぜん違うように感じた。私は連中を浮ついた馬鹿どもだと見下していたが、連中は連中で私を、やたら考え込んでいる意識過剰の痛い奴と馬鹿にしていただろう。また逆に、時には自分に欠けている「ハイカラなセンス」を連中が持っていることを羨むこともあった。連中の方に私を羨むことがあったかどうかは分からない。

ちなみに谷崎は東京出身で、帝国大学に通ったのだから、当時の慶應の学生を下に見ていたんじゃないか。。

久々に『痴人の愛』を読みたい。