杉本純のブログ

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やり甲斐と義務

どうも最近、仕事における「やり甲斐」と「義務」をごっちゃにして考え、それどころか、義務よりもやり甲斐の方を優先して仕事を進めようとする公私混同の人がけっこう多い。

…念のため断っておくが、実際に社員の「やり甲斐」を極めて重視している会社は存在しており、そういうところはそれでも継続していけるビジネスモデルを作っているので、必ずしもいけないわけではないのだが、私が実際に見たことのあるクリエイティブの世界では、クライアントはもちろん、社内の同僚同士であっても個人の仕事の「やり甲斐」はあまり重視されていないのである。

こういうのは、恐らくある種の古い考え方だろう。そういう考え方がなくなっていくことは反対ではないし、「やり甲斐」が重視されるのは当然のことだと思う。しかし、例えばたまたま入ったコンビニで商品を買う時、私たちが店員に求めるのは適切なオペレーションをしてくれることであって、初めて会った名前も知らない店員がその業務にやり甲斐を感じているかどうかに関心がないのは当たり前で、昔も今も変わらない。同じことは外食店員についても言えるし、新聞配達員、水道・ガス・電気の工事者、電車の運転士でもタクシー運転手でもほとんど何でもそうである。

労働をして生み出された価値を受け取る相手は、労働をする本人が労働にやり甲斐を感じているかどうかは関心がないのだ。労働をする側は価値を提供する義務がある。価値を受け取る側は対価を支払う義務がある。それが経済のルールではないだろうか。そして、それはフェアなことだと私は思う。もちろん、対価を受け取る労働者は、対価を支払う顧客の気持ちなんてどうでもいいのである(ただし、次も相手から注文がほしいので、とうぜん相手の気分を害さないようにする)。

労働者のやり甲斐やこだわりや思いなんて、価値を受け取る側にはどうでもいいのである。それは顧客だろうと、同じ会社に勤める同僚同士だろうと同じだろう。

まぁ、自分がよほど心に余裕のある優雅なひと時を過ごしていれば、サービスや商品を提供してくれる相手のやり甲斐にも心を配るかも知れない。だからといって、相手がやり甲斐を感じていないからといって、自分が欲しい商品やサービスを提供してくれなくて構わない、ということにはまずならないだろう。頑張ってね、応援してるからね、などと言うだけだ。

ところが、そういう仕事の間柄に「私情」を紛れ込ませる人がいるのである。やり甲斐を感じられない仕事を避けようとしたり、また、自分の好きな、仲が良い同僚について、こんなにたくさん仕事を任せるのは可哀想だだの、やり甲斐を感じられるよう本人が望む仕事を与えなくてはいけないだのと言う。そう言うだけならまだ許せるのだが、実際に仕事の割り振りまで口出ししてきたりする。つまり、仕事の間柄に私情を挟んでいる。公私混同である。こういうのはやめてほしい。

対価を得る以上、義務がつきまとうのである。その義務は、必ずしも前向きに受け止められるものばかりではない。それは当たり前である。全社員が十分にやり甲斐を感じて、それでも事業を継続していける会社なんて、私はいまのところ想像しにくい。そういうビジネスモデルが継続できるのは、それはそれですばらしいことだと思うが、人と人が一緒に仕事をする以上、どこかに必ず軋轢や不和が生じるのは当然であり、それが健全であるとも言えると思う。

仕事である以上、まずは義務を果たす。その中で、各々がやり甲斐を感じられればハッピーなのだ。