杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「非情の情」

以前インタビューしたある経営者が、人材育成とか評価について述べる中でこの言葉を使っていた。一見すると非情ではないかと思える仕打ちも、実はそうではなく、その非情さの中に情けがある、といった意味だ。まったくその通りだと思う。

ライターとかクリエイティブ職などはその最たるものの一つではないだろうか。この世界は、本人がやりたいと思って入る世界なので、指導は時に厳しく、苛烈になることもあるだろう。指導される側は、歯を食いしばらなくてはならない場面もあれば、上司や先輩のやり方が理不尽だと思う場面だって多々あるはずである。それが嫌なら、勝手に辞めればいいのだ。

私自身、理不尽だと感じたことは何度もあるし、上司や先輩に抗弁したこと、ケンカみたいになったことも少なくない。それで辞めてもいない。図々しく続けている。上司や先輩の指導に負けなかったのだと自負している。

こんなことを言うと、一部の人からは嫌われる。人によっては、パワハラを助長している、などと言い出すかも知れない。しかしそれは違う。もちろん私も部下や後輩を自分の奴隷としか思っていないような上司・先輩など大嫌いだったし、抽象的な精神論を展開して厳しい指導を正当化しようとする奴など単なるバカと思いまったく関心がなかった。

とはいえ、それは仕事は安易でいい、イージーで構わない、という意味では断じてない。仕事は労働をして対価を得ることであり、労働とは価値を生み出して提供することである。その内容は、優しいものもあれば過酷なものもあるのは当然。だから部下や後輩に、本人にとって過酷と思われる仕事を負わせる場面は避けられない。

しかし、そういう単純なことがわかっていない奴が意外に多い。しかも、ライターとかクリエイティブ職の中に少なくない。こんな大変な仕事はまだ新人なんだから無理だ、とか、こんなに仕事を振るのは可哀想だ、とかほざく奴がけっこういるのである。部下や後輩に嫌われたくないのか何なのか知らないが、「非情の情」ということを少しは考えるべきだ。

まあ確かに、クリエイティブの世界だと、非情な仕打ちを受け、それを乗り越えても何の見返りも与えられない、褒められもしない、ということが往々にしてある。つまり「非情」なだけで「情」がない、というわけだ。聞くところによると、介護福祉の世界なんかもそうらしいが、そういう問題についてはきちんと褒賞制度を設けるなり何なりして経営者が対処するところだろう。ただし、「頑張れば必ず報われるわけでもない」というのを知ることも大切である。

部下や後輩の心身をまったく配慮しない馬鹿な上司や先輩、あるいは過酷な仕事を美化する精神論者などは論外の馬鹿。しかし、仕事は楽じゃない。優しいのは必ずしも愛情じゃない。当たり前のことだ。