杉本純のブログ

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自己陶酔家か自意識過剰か

小説家とは、ドキドキするような自分の秘密について語らずにいられぬ人間である。さらに、いったんそれを語り始めると、どのようにでも図々しくなり語りつづけて倦まない人間なのである。

大江健三郎『私という小説家の作り方』(新潮文庫、2001年)の八章「虚構の仕掛けとなる私」の中の、トーマス・マンの『日記』から日本の私小説へと言及していく過程の文章である。小説を書く者の姿勢、というよりあり方のようなものを自分に当てはめて考える時、たまに意識している。

「ドキドキするような自分の秘密」。ないことはない。いや、確かに複数あるし、一度書き始めたらそのままずんずん書き進めてしまうところもある。けれどもそれを発表してしまったら、少なからず傷つくであろう人がいて、読む人によってはその傷つく人を容易に特定できそうな気がしてしまい、なかなか書き始める気にならない。

それは上記の文章に当てはめて考えると、小説家らしからぬ人間であることを示しているように思う。しかし近ごろは、読んだらあの人が傷つきそうだから…などという理由で書き出せないのは単に自意識過剰なだけではないのかと考えるようになってきた。

それにしても、ドキドキするような自分の秘密を語りたくなるというのは、一種の自己陶酔的な傾向ではないかと思う。とすると小説家は自己陶酔家の傾向を持った人だということになる。強い自意識を持ち、それが過剰にならない程度ならば、小説家にふさわしいということか…