杉本純のブログ

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主題を出現させるには

教育テレビの「昔話法廷」という番組を見ていたら、ふと、以前読んだ三島由紀夫の『小説読本』(中央公論新社、2010年)の文章を思い出した。

番組は、多くの人が知っている定番の昔話や童話を題材に、悪役を倒した主人公が裁判にかけられ、悪役は本当に悪かったのか、主人公は本当に正義なのか、が問われるバラエティである。一方、思い出した三島の文章とは、『小説読本』に収録されている「法律と文学」で、初出は1961年12月の「東大緑会大会プログラム」である。

その冒頭で三島は、自分は法科学生だったころに刑事訴訟法に興味を持った、と述べている。団藤重光という教授による、「『証拠追求の手続』の汽車が目的地へ向かって重厚に一路邁進するような、その徹底した論理の進行が、特に私を魅了した」と。

面白いと思ったのはその後の方で、三島が、刑事訴訟法が技術的に小説や戯曲の好個のお手本のように思えた、と語っているところだ。

小説も戯曲も、仮借なき論理の一本槍で、不可見の主題を追求し、ついにその主題を把握したところで完結すべきだと考えられた。

『小説読本』に入っている「私の小説作法」(「毎日新聞」1964年5月10日夕刊)でも、三島は「法律と文学」と同じことを述べている。

 小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかえれば、あとは全く同じだと私は考えた。(中略)主題はまず仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追いつめ、追いつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品というものは完全に完結し、ちゃんとした主題をそなえた完成品として存在するにいたる。

三島は、刑事訴訟でも証拠不十分で元の木阿弥になる訴訟はたくさんあるのと同じで、小説も最後のどんづまりになっても主題がうまく現れてこない例は多い、と言っている。なるほどと思った。

書き足りない、書き切れてない、掘り下げが足りない…などによって主題が沈没してしまうようなことはけっこうある。そういう場合、まず最後まで書いてみて、そこから直す方法があるのだろうが、私の場合、ひとまず書き上げた時に感じるのは、なんというか…小説が家だとすれば基礎からしてまったく覚束無いほど貧弱で、直すくらいならぜんぶ捨てて最初から書く方が良いと思われるのだ。だから、書き出すことも大切だが、まずは主題が十分に出現できる下地を整えておくことが重要だとも思う。

さて「昔話法廷」は、主人公は悪いことをしたとして裁判になり、弁護人と検察が証拠を持ち出してああだこうだと言い争う。題材が物語であるだけに、三島の述べたことと並べて考えながら見てしまったが、それは別として、悪いことをした人間をあれこれ理由をつけて擁護しようとする小説は低級な犯罪モノじゃないかなと思った。