杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

氷山の一角

竹中労の『ルポライター事始』を読んだのは十年近く前だと思うが、強く記憶している言葉がいくつかある。その一つが「“醜聞”は、つねに氷山の一角でなくてはならない」というもの。

これは、当時の藝能記事の多くが、取り上げる相手のことをろくに調べもせずに書かれていることを、竹中自身がいささか憤りを込めて批判したくだりの一節だ。

 スキャンダリズムとは、一を十に拡大することとはちがう、センセーショナリズムとは、かならずしも同義ではない。“醜聞”は、つねに氷山の一角でなくてはならない。十を知って一を書くこと、白刃鞘の内にあって相手を斬らねばならぬのである。最近の芸能記事にその配慮はない、調べたことを洗いざらい、いや確実に調べもせぬことを書き立てては告訴されている。

そして、そんな体たらくなのは、デスク、データマン、アンカーの三分業システムのせいで書き手が取材しないためだと批判している。その上で、共同取材は構わないが、「自分が足でたしかめるというルポルタージュの鉄則」が失われ、粗製乱造が横行していると言っている。私は請負プロダクションの業務を行う中でデスクと取材記者(いわばデータマンとアンカーの兼務)の分業を支持しているが、たしかにそれで粗製乱造になってしまっては本末転倒だと思う。

とまれ、私の胸に強く響いたのは「氷山の一角」だ。私は「醜聞」を単純に「記事」とし、なるべく氷山全体を捉えた上でその一角を記事に書くよう心掛けている。

全体が分かっていなくては部分は書けない。書く部分がその周囲とどういう関係にあるのかが分からなくては、広がりのない、狭い視野の中で書いた記事になってしまう。それは、基礎がしっかりしていない家のように、ちょっと突かれただけで倒れてしまう脆さがあると思う。だから私はなるべく対象の周囲の全体を捉えるようにしている。

…それは、けっこう大変なのだが。