取材記事を作る仕事ではインプットが大半を占め、アウトプットはごくわずかだと以前書いた。氷山の一角を書くには氷山全体のことを知っているべきだというのも以前書いた。
しかし、インプットを十分なものにしようとするのは結構だが、完全にするのは無理だ。また、いつまでもアウトプットをせずにいては仕事にならないし、心身に毒でもある。
映画学校に入学しようと決めたとき私はまだ大学生で、卒業後に入学する予定だったのでそれまでにまだ数年の余裕があった。だから自分の映画の教養をなるべく分厚くしようと、地元のビデオレンタル屋にあった作品の中から古典的な作品を片っ端から観ていった。また図書館の視聴覚コーナーにも頻繁に足を運び、レンタル屋に置いてない黒澤明のマイナー作品などを次から次へと観た。溝口健二の後期作品がどのパートを取っても非の打ち所がなくすばらしいのを知ったのはその頃。
しかし当時すでに映画は誕生百年を超えており、その短期間で古今東西の名作を全て観ることなど、とてもじゃないが不可能だった。
けれども教養の礎を完全なものにしておかないと気が済まず、私は映画学校入学後も日に二、三本ほどのペースで観まくっていったのだが、それでも広大な映画の世界の年表と地図を渉猟し尽くすには至らず、やがて映画学校も卒業することになってしまい、勉強はそこでストップ、というより減速させざるを得なかった。
たしか夏目漱石も英留学の頃には古今東西の文学をすべて読破しようとの意気込みで読みまくった時期があったそうだが、その終わりに際して分かったのは、そんなのは頭髪が全て白くなる時期まで続けても無理だということだけだった、というようなことがどこかに書いてあった気がする。『文学論』だったか『文学評論』だったか。
漱石と私を並べるのは良くないが、要するにそういうことで、古典だけをとっても東西の全コンテンツを鑑賞しようとするのは無茶。古典の教養は分厚ければ分厚いほど、自分に揺るぎない自信をもたらすと思う。しかしそれは決して完全なものにはならない。転じて、勉強するのはけっこうだがそれを完成させるのは不可能だと言える。
また完全なインプットを目指してそればかりやっていると、頭でっかちになってしまうどころか不健康になってしまうと思う。
上記のように、インプットはし尽くせないので、知見を溜め込もうとすると永遠に溜め込み続けることができてしまう。しかし肉体と同じように、精神も溜まってきたものは適度に放出させてやらないと健康に悪いのだ。
私自身、勉強ばかりして知識がたまってくるのはいいが、長いこと作品を書かずにいると、いざ作品を書こうとする段階にはやたら理想が高くなってしまっていて、ちょっと書き出してはダメだと抛り出しイライラが募っていったことがある。というより、今もそうなのだ。
しかも、それは自分だけの問題では済まない。周囲に同じように作品を書いている人がいたりとすると、その作を必要以上に厳しい眼で見て、わずかな落ち度を鬼の首を取ったごとくにあげつらい、攻撃する嫌な奴になってしまったこともある。学びを活かして創造する、精神的に健康な生活を送っていれば、そんなことはせずに済むと思う。
アウトプットを良いものにするためにはインプットは不可欠。けれどもインプットばかりやってアウトプットしないのもよろしくなく、時に有害でもある。