杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

勉強のための勉強は価値がない。

二十歳になる頃からずっと勉強してきた。学校の勉強ではなく、映画や文学に関することを学んだ。作品に多く触れ、またその世界の歴史や東西の古典にも眼を通し、また自らも作って、藝術作品として上等になるよう飽かず取り組んできた。

これは、自分自身では勉強と思っている。だが、最近は勉強ということについて違う角度からも考えるようになっている。それは、勉強というのは投資であって、勉強して知識が豊富になっていく過程は楽しいが、それだけでは駄目で、やはりそこから何らかの価値を生み出さなくては勉強する意味はない、ということだ。つまり、勉強のための勉強は、自己満足以外の何ものでもないのではないかということだ。

本を読んで笑ったり泣いたりするのは良いことだ。あるいは、読んで知識を身につけるのもためにはなる。前者の場合、読書は単に娯楽であり、消費行動に他ならないだろう。では後者は勉強なのかというと、知識を身につけて満足しているだけなら、それも実は娯楽の域を出ておらず、要するに消費行動なのだ。

なぜならそれは勉強のための勉強、それ自体で完結しているからだ。しかし本当の勉強というのは、いろんな方法があると思うが、学んだことを使って、何らかの他人にとっての価値を生み出すことだろうと思う。

思えば私は二十代前半に映画に打ち込み、古今東西の映画を観まくって勉強した気になっていたが、あれは単に知識だけを膨らませて満足していただけだったので、ここで言う意味の勉強とはちょっと違っていたと今では思う。膨らんだ知識は使わないとどんどん肥大し、やがて腐ってきて、果ては使い物にならない重荷に変わってしまう。知識をひけらかして目下の人間を馬鹿にする、なんて奴もいるだろう(そういう人、実際にいた!)。

教養を身につける、という考え方もあるだろうが、知識を詰め込むのが好きなだけの頭でっかちの人間が教養人であるはずがなく、身につけた知識を生活の中で使って、相手も自分も楽しませるのが教養ではないか。知識はお金と一緒で、使ってこそ価値があるのだ。

勉強は投資で、投資は資産を形成することだ。磯田道史先生が言っていた「知識資本」を作ることなのだ。