杉本純のブログ

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先行研究

研究に臨む姿勢

井上真琴『図書館に訊け!』(ちくま新書、2004年)を読んでいて、面白い、というか考えさせられる箇所がありました。

「学術研究の基本スタンス」という見出しが付けられた文章の中に、「何か仮説をたてようとするならば、これまで出ている成果のすべてに目を通し、その上に自分のオリジナリティを加味していくことが学問の始まりなのだ」というところがあり、それが必要であることが、大学図書館の存在意義だという風に述べられています。

さらに、「一つの学問で業績を上げようと思ったら、それまでにその分野について研究されたことごとくの先人の業績について、すべて承知をしていなければいけない」という林望の講演の引用を載せている。

それらの文章が掲載されている章は、いわば図書館、中でも大学図書館専門図書館の存在意義を述べるもので、研究をやるなら上記のように先行研究を網羅する必要があるのだから、書店や古書店だけで資料収集するのは駄目で、図書館を使わざるを得ないのだ、という論旨になっています。

私は文学研究の真似事をしていますが、先行研究は当然ながら多数存在します。それらを網羅するべきなのはこれまた当然のことで、だから時間を見つけては資料を探し、文献を取り寄せたり、論文をダウンロードしたりしています。井上の述べることや林望の引用箇所には疑問はなく、研究をやるならそういう姿勢で臨むべきだろうと思います。

先行研究の網羅という難題

実際のところ、「これまで出ている成果のすべて」というのが、どの研究対象について述べているのかは分かりません。まあ、井上が述べたいのは上述の通り、そういう姿勢で研究をするべきだから図書館を使おう、ということだと思いますので、具体的にどんな研究をするのかはここでは問題ではありません。

さて、では本当に何かを研究する時、その先行研究に一つ残らず目を通すことは可能なのか。私の考えでは、可能なものもあれば、そうでないものもある、といったところでしょうか。

西永良成『『レ・ミゼラブル』の世界』(岩波新書、2017年)は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を訳した著者が、同作の「哲学的な部分」と呼ばれる箇所に込められたユゴーの思想について、作品の成立事情を辿りつつ紹介していく面白い本です。その「おわりに」の冒頭に、ユゴー研究に関するこんな文章があります。

 もっとも信頼すべきユゴーの伝記作者、ジャン=マルク・オヴァスによれば、ユゴーは世界でシェイクスピアに次いで研究されている作家であり、パリの国立図書館に所蔵されているユゴー研究書を全部読むには、一日一四時間かけるとしても二〇年間必要だという。また未刊のもの、書簡などもふくむユゴーの残したすべての作品・文書・書類を読むには、毎日それに専念しても、一〇年はかかるという。さらに、マリオ・バルガス・リョサは、まるまる二年間ユゴーの作品と関連資料を読んだが、結局、人はユゴーとは何者かを知ることはけっしてないと分かっただけだと言っている。
 だから私のごとき浅学非才な者が、たとえ対象を『レ・ミゼラブル』にしぼるにしても、ユゴーについて論じるのは、滑稽千万な蛮行にはちがいない。

夏目漱石はイギリスに留学した時、文学を極めようと意気込んで徹底的に読みまくったが、髪の毛がぜんぶ白くなるまで続けても全ての文学作品を読み通すのは不可能だと悟ったと、たしか『文学論』に書いていたと記憶しています。生意気ながら、私も映画に血道をあげていた頃は一日に数本の作品を観たものですが、その取り組みの途中で気づいたのは、この調子で死ぬまで観続けても俺は古今東西の名作を観尽くすのは無理だな、ということでした。

話を戻すと、上記引用から察するに、西永は恐らくユゴーの研究書を網羅しておらず、『レ・ミゼラブル』に関するものすら全てに目を通したわけではないのでしょう。

ユゴーや『レ・ミゼラブル』ですらそうなのですから、シェイクスピアとなるとさらに先行研究は膨大になり、すべてに目を通すのは至難の業でしょう。いわんや聖書やコーラン、仏典などになれば、先行研究を網羅している図書館すら世界に一つもないと思われ、当然、全ての研究に目を通した人もいないと思います。

とにかく時間と労力はかかる

そういうことは井上も百も承知のはず…というより、そもそもユゴーシェイクスピアといっても、そこからさらに絞り込みをかけて研究するだろうと思います。伝記的な研究とか、同時代の作家たちとの影響関係とか。それなら先行研究の数はぐっと下がるはずなので、網羅できる可能性も高まるでしょう。

とはいえ、絞り込んだところだけを網羅するとて、それ以前に基礎研究などは当然ながらしなければならないので、研究というのはとにかく時間と労力を要するものだということです。