杉本純のブログ

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レクトゥールとリズール

三島由紀夫の『文章読本』(中公文庫、1995年改版初版)をこないだ久しぶりに読み返したが、チボーデが言ったレクトゥールとリズールについて書かれている箇所が懐かしかった。

 チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大部分はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。

そして、リズールの段階を経なければ文学そのものを味わうことができず、自分も作家となることができません、とまで言っている。ただし、志賀直哉のエピソードを引き合いに出し、リズールたることを拒絶する型の作家もいることを示唆しているので、厳密ではないことがわかる。

とまれ、本書を初読した2003年当時、私は学生で、上記引用箇所にいたく感銘を受けたらしく、リズールを経なければ作家になれない、というくだりにはマーカーを引いている。

つまり、私もリズールでありたい、と決心したものと見えるが、今は自分がリズールかレクトゥールか、などどうでもよくなっている。現実の公私の生活の他に、小説の世界を感じ、創造して生きているから。

ところで最近よく感じるのは、世間の大多数の人は文学などぜんぜん興味がないということだ。自分の内側に小説世界を構築しているリズールは、稀少かつ豊かな人生を歩んでいるかも知れないが、それは同時に貧しくて不幸な人生なんじゃないか、という気もする。