杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

ファッションワナビについて

私は、作家や、何かのプロに憧れ、それになろうと努力している人(ワナビ)に共感している。小谷野敦先生を通して知った宮尾登美子の日記や吉村昭『私の文学漂流』などを読むと辛くなってくるのは、本人のワナビ時代の思いが少しは分かるからだろう。

しかし、同じワナビでも軽蔑するのが「ファッションワナビ」である。これは、作家なら作家、俳優なら俳優になろうとしている、その「なりたい・なろうとしている」ことそのものを一種のファッションとし、凡庸な仲間たちの中での自分のキャラとしている人だ。面倒くさいからここでは「ファナビ」と書く。

ファナビは、仲間からの一種の「承認」を得たいがために、この「なりたい・なろうとしている」のアピールをする。しかし寸暇を惜しんで作品を書くでもなく、オーディションを受けまくるでもない。でも仲間は仲間で凡庸な輩(何かのプロというわけではない一般の人びと)なので、作家志望や俳優志望と聞くと、おぉ~、となるのである。

私のかつての同僚にこのファナビがいた。もっともそいつは仲間からの承認すら得られていなかった。もしかすると、どんなファナビも一見すると承認を得られているようで、実は仲間から陰では馬鹿にされているのかもしれない。
さてその同僚だが、あまり仕事で良い成績を出せておらず、他の同僚たちからの評判も良くなかった。私の見たところでは、その評判の悪さを逆転させるため、自分に尊敬を集めるためにファナビをしていた節があった。つまり、「俺は会社の仕事なんてできなくても気にしてないよ。いずれ作家になるんだからさ。お前らのような凡人とは違うんだよ」ということである。その同僚は、やがて会社を辞めた。

ワナビは、理想と現実が乖離しているため辛い。現実の中の「自分」は世を忍ぶ仮の姿なのだから、周囲の人が自分がワナビであるのを理解していないとコミュニケーションが取りづらく、親密になるのも難しい。というか、苦しいのである。
それをファナビは、絵に描いた餅でしかない「理想」を高々と掲げることで、自己を確認し、他人からの承認を得ようというわけだ。

かく言う私も一時期はファナビだった。しかし、言わば「隠れファナビ」だった。周囲の人が理解してくれない、評価してくれない現実に対し、心の中で「フン、俺はお前らみたいな凡人とは違うんだよ。作家になるんだから」と唱えていたように思う。そして、理想を現実化するための努力はあまりできていなかった。実に情けない奴だった。
ただ、私は勉強はしていた。そして正真正銘のファナビにはどうしてもなれなかった。やはり「俺、作家目指してんだよね」などという自慢ができなかったのだ。

私は太宰治の『人間失格』を「無頼派ファナビ小説」だと思っている。「俺って普通の男じゃないんすよ。だから作家くらいしか生きる道ないと思ってんすよね。こんな俺ってかっこよくないすか?」という小説。アホかコイツ、という感じ。石川淳の小説なども結局はそんなものではないか。

西村賢太の初期の私小説は、好きである。石塚友二の「松風」も好きである。