杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

作家になりたいのか、作品を書きたいのか。

ある人が、作家になるには執念がないと駄目で、家族や友人に配慮しているようではいけない、といった意味のことをSNSで書いていた。大いに共感するのだが、ちょっと考えさせられる部分もある。

というのは、「作家」という職業はけっきょく書くことが全てなわけで、作家という肩書を得ても書かなければ作家とは言えないから、その肩書を得ることに執念を燃やすのは如何なものかと思うのである。

私は以前、絶対に小説家になるぞ、と執念を燃やし、睡眠時間を削って小説を書いた。しかし、それを新人賞に応募して駄目だったから、というのもあるが、そういう意志で小説を書いた後には大きな徒労感しか残らなかった。自分が面白いと思うものが書けなかったのだ。

私が小説家になることに執念を燃やしていた裏には、周囲の奴を見返してやりたい、優越感を得たい、という気持ちが少なからずあった。私は徒労感と一緒にそのことを自覚し、そういう気持ちで新人賞の競争に時間を捧げ続けることの無理も感じた。ワナビをこじらせ切った挙句、ようやくこじれた気持ちをほどいていかなくては、と思ったのだ。

新人賞に応募しまくってついに作家になった人から言わせれば、私は根性なしなのかも知れない。しかし、結果としての優越感ならともかく、優越感を得るために作家になるのはやはりおかしな話で、まず自分がこれは面白いと思うものを書いて充実できなければ、逆にどうして作家になったんだということになると思う。

そんな風に考えたこともあり、「作家になる執念」よりも「作品を書く執念」の方が、さまざまな現実の苦難を乗り越える力になると思っている。家族友人の評価に左右されない強さも、書くことへの欲求が生み出すのではないか。