杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

だから歴史は面白い

猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦』(中公文庫、2020年)を読んでいる。日米開戦前、戦争を始めた場合の戦局のゆくえについて、官民の若いエリートが集まりシミュレーションした「総力戦研究所」の取り組みと、その傍らで進んだ開戦までの経緯を取材した本。総力戦研究所のことはもちろん、日米開戦についても類書を読んでいないに等しい私は、読んで瞠目するばかりだった。とにかく猪瀬の語りが読ませる。面白い。

なかんづく、東條英機については本書を読む前と後とでは認識が変わり、その意味でも意義深い一冊と言えると思う。

先の大戦については今でも新資料が出てきて、NHKスペシャルなどで取り上げられている。一方、最近、子供向けの日本の歴史のマンガを読む機会があり、開戦の経緯がごく短くまとめられていたのを見た。細かい部分を断定的に書くのは専門家でも難しいだろうと思った。結論に到達するなど永遠に不可能なんだろうと思うが、だから歴史は面白いんだろうとも思う。

お金のはなし7

両@リベ大学長『本当の自由を手に入れる お金の大学』(朝日新聞出版、2020年)を読んだ。

経済的な自由を手にするために、お金の5つの力(貯める、稼ぐ、増やす、守る、使う)を身につけようという趣旨で、特に、貯める、稼ぐ、増やす、については詳しく述べられている。

全体的に山崎元『お金とつきあう7つの原則』(KKベストセラーズ、2010年)に近い内容だが、本書はイラスト入りで分かりやすく、実践的である。ページ数が多く文字が小さいが、イラスト入り解説のためにそうなっているので文字数自体は少なく、すらすら読める。

タイトルからして、自由=お金、という印象を受けかねないが、著者はそんなことは言っていない。何をするにもお金が必要であり、やりたくない仕事をやらなければならない場合、その理由はだいたいはお金のためだろう。生きるために、お金のことを知っておくのは益はあっても害はないだろう。

ちなみに私は二十代から三十代にかけて、お金でかなり苦しい思いをしたので、本書に書かれているようなことがもっと早く分かっていれば…と読みながら思った。学校では、お金の使い方や稼ぎ方や増やし方を教えてくれない。絶対に教えるべきだと思う。

レゾンデートル

森稔『ヒルズ 挑戦する都市』(朝日新書、2009年)冒頭は、ハーバードビジネススクールに森稔が招かれ教授や学生とセッションする様子を伝える記事である。これで面白いと感じたのは、学生の質問が学生とは思えないほど具体的かつ鋭いことだ。なんというか、良い意味で目上の人を恐れていない感じを受ける。日本の学生はこういう質問がしにくいんじゃないか?と漠然とだが思った。

中である学生が、「あなたが、若いころにもらいたかったアドバイスをわれわれにしてください」と問う。森稔はこう答える。

自分のレゾンデートル(存在意義)を早く探し出すこと。私自身もっと早くわかっていたならばなあ、と思うことがあります。

森稔はもともと小説家志望で、父の不動産会社に入った当初は小説のネタ集めをするくらいの考えだったようだ。しかし、それが都市づくりにのめり込み、半世紀以上を捧げることになる。小説家でなく不動産の仕事を自分のレゾンデートルだと思うようになったのかも知れない。言うなれば「天職」のようなものかな、と思った。

その人の天職とか適職というものが本当にあるのかどうか、分からない。あるような気もするが、そういうのは自分の野望や挑戦心を諦めるのに都合の良い考えのようにも思える。また、レゾンデートル=天職や適職、というわけでもないだろう。レゾンデートルの方が、もうちょっと深い概念である気がする。

とまれ、自分のレゾンデートルを確信した人間が強いのは間違いないと思う。恐らく大切なのは、レゾンデートルを見つけられるところまで徹底的に前進すること。

時間の停止

先日、ワナビは「自分病」という病に冒された患者ではないか、と書いたが、その症状や障害は、理想と現実のギャップゆえの悶々とした状態の他に「時間の停止」という事象があるのではないかと思った。

自分病患者は、理想の自分を追い求めて現実を彷徨う。自分病の克服は、努力による理想の達成か、リハビリによる理想の棄却か、のどちらかではないか。つまり、理想の自分を手にするに努力と行動を継続する。あるいは、自分を翻弄する理想を断ち切るためにリハビリめいた生活を続ける。

そのどちらかを明確に意識し、取り組んでいる最中は、前進している。しかし、自分病に冒されたまま悶々、鬱々とした日々を過ごしているだけの状態は、言わば(人生の)時間が停止している状態ではないか、と思う。他人の言動にいちいち刺激され、あっちへふらふらこっちへふらふら、理想の達成を夢見てみたり、逆に理想を諦めようとしてみたりして、現実の時間だけはどんどん過ぎるがけっきょく自分の人生はどこへも進んでいない。ただ同じ状況の中をぐるぐる回っているだけの状態である。

これでいいはずはない。まずは自己本位で考え、行動することを生活と人生の確固たる軸にするべきだろう。

自分病

以前このブログで「○○青年」はワナビだと書いたが、「自分病」という病に冒された患者と言い換えることもできるような気がする。セルフイメージが強く、それがなかなか他人に認めてもらえないから悶々、鬱々とする。膨れ上がったセルフイメージが原因なので、自分という病、つまり自分病である。これに冒された人は、セルフイメージと現実の絶望的乖離を解消していくための努力、ないしリハビリが必要だろう。

目的と手段を混同しない

佐伯一麦は若い頃、小説家になろうとして「書く仕事」を探し、フリーライター事務所に勤めていた。だが、夜遅く帰った自宅の部屋に置かれた机に書きかけの小説の原稿が積まれているのを見て、自分は小説をやろうとしているんじゃないのか? と考えるに至り、ライターは終わりにすることにして事務所を辞めた。目的はあくまで小説を書くことだった。「書く仕事(フリーライター)」に就くことは手段に過ぎなかったのだ。

ライターをやる人に小説家志望者は少なくないが(私もその一人)、その人の目的はあくまで小説を書き、発表することであってライターをやることではないはずである。

が、「書く」という行為が共通しているので両者を履き違えやすく、結果、ライターを目指し、なったら全力で書き、続けるために頑張り、いつしかそちらが目的化してしまうという、目的と手段が入れ替わった事態になってしまうのである。

中には森ビルの森稔のように、小説のネタを探して入った不動産の世界にどっぷり浸かってすっかりその世界の人になる例もあるだろう(森稔が実際にそうだったのかは分からないが、そういう人はいると思う)。それはそれで良いが、長いこと続けて「こんなはずじゃなかった」となるのは損である。目的と手段を履き違えてはいけないと思う。

明けない夜

明けない夜がある。そんなことを宇佐見りんが言っているようだ。春がこない冬もある、なんて言っている人もいる。

会社で仕事をしていると、明けない夜はない、と言う方がリアリティがある。仕事は時間と共に動いていて、どんなキツい仕事も必ず終わるからだ。仕事そのものも、今のところのルールだと定年を迎えれば終わることができる。

では明けない夜や春がこない冬というものは、あるんだろうか。ある。ワナビの目標達成がそれだ。こつこつ書き続け、チャレンジし続ければ、新人賞を取ったり、売れる作品を出したりできるかも知れない。が、できないかも知れない。いつ明けるとも知れぬ夜、いつ春がくるか分からない冬を過ごすのが、ワナビだろう。

いつか誰かが、成功はアートで、失敗はサイエンスだと言っていた。ワナビにとって、夜が明けるのは多分アートなのである。アートをやろうとしても恐らく駄目で、失敗を重ね、サイエンスで一歩ずつ前に進むしかないのだと思う。