杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

テレビドラマ「一億円のさようなら」

NHK BSで昨年放送されたドラマ「一億円のさようなら」を全て見た。原作は白石一文の同名小説で、ドラマは昨年9月27日から11月15日にわたって放送された(全8回)。録画してゆっくり、時間がある時に見たので見終えるのがずいぶん遅くなった。

長年連れ添った妻が巨額の資産を相続していたことを知った男が、妻から渡された1億円を持って妻と別れ、人生をやり直すが、最後は家族がほぼ元通りになるハッピーエンドの話である。

テーマはごく凡庸で、家族、夫婦、お金、働くこと、などについて、一般的な良識を提示するものである。今日的であるとも言えると思う。風変わりなのは安田成美演じる妻だが、周りがあまりに普通人なのでそう見えただけかも知れない。

夫婦が出会った頃と現在をカットバックで見せつつドラマが進行し、ときどき上記のようなテーマを滲ませるが、見させるのはストーリーの方で、巨額の遺産の存在の発覚、大人になりかけている子供たちの転機、主人公の退社と再出発、新たな事業への挑戦、などがテンポよく展開する。ドラマ化のポイントは、このストーリー展開だろうと思う。

ストーリーテリングの優れた作品は、うまくいくと国際的な成功も収めるらしい。この作品の場合、今日的なテーマを設定し、ストーリーの展開を上手にやったことがドラマ化された要因なんじゃないか。そんな風に思った。

「鶴の恩返し」的な。。

こないだ知人と話していた時、その人が、仕事を家に持ち帰って26時くらいまでやっている、と言ったので愕然とした。さらに聞いてみると、その人の同僚も同じような状況にあるらしく、持ち帰り残業だから残業の申請はしていないし、当然ながら残業代は支払われず、会社は実態を把握していないだろう。

持ち帰り残業は、私の考えでは「会社を騙してサービス残業をすること」で、誰も得しないので絶対にやるべきではない。個人情報を扱う会社なら、万が一、事業所以外の場所で仕事をした社員が情報漏洩をしたら、まあ会社が責任を取るのだろうが、会社は情報の持ち帰りを許可していないのだから困るに決まっている。ビジネスの構造を考えれば、それくらいのことは容易に理解できるはずだが、理解できたとしてもやってしまう人がいる。

正当な理由があるなら残業するのは仕方ないし、その分の残業代をもらわなくてはならないと思う。しかし、残業代が増えると会社は困るから社員を注意する。社員は、正当な理由があるはずなのに、注意されるのが嫌なので、黙って持って帰るのではないか。しかし、それは上記のように誰も得しないどころか、何かあれば皆が損をするので、やるべきではないと思う。

人から隠れて、その人のために働く。なんか「鶴の恩返し」みたいな。。あれって鶴がどんどん痩せていくんじゃなかったっけ。。

もう何年も前だが、多くの人が終電まで仕事をしていたし、私もそういう時代に、終電どころか終バスもなくなって駅前のカプセルホテルに泊まったことがある。また映画をやっていた時期は、無報酬なのに一日に仮眠一時間で毎日バカみたいに働いた。長時間労働は、それなりに経験している。だが持ち帰り残業は、それをやろうとする気持ちが理解できないのだ。

寒紅梅が咲いていた。

f:id:atsushisugimoto:20201228224953j:plain

冬のある休日、都立赤塚公園の寒紅梅の花が咲いていた。

赤塚公園のTwitterによると、クリスマスの日には咲いていたらしい。公園のサービスセンターの方が驚きのコメントと共に写真付きで投稿したが、もともと寒紅梅の花は寒い時期に咲くようだ。

私はそのツイートを見て面白そうだと思い、時間があったら休みの日に足を運んでみようと思っていた。赤塚公園は広いので探すとなると大変だが、とはいえジョギングコースの周囲には梅などなかったはずだし、あるとしたら北側の正面入り口付近だろうなと思っていた。で、行ってみたら、案の定そこにあった。

私の他にも珍しそうに花を撮影している人がいた。

牛のように2

2021年が始まった。昨年はコロナ禍で大変な一年だったが、今年はどうなるのだろう。

一年の計は…などと形式ばったことをする気はないが、今年も引き続き書き続けていくのは言うまでもない。逆に言えば、物書きをやる者にとってやるべきことはそれくらいしかなく、それ以上の目標を立てて書くことを忘れてしまってはいかんのである。

とはいえ、ただ書くだけでも駄目である。勉強し、練習して、試合に臨まなくてはならない。つまり、書いたものを発信し続けなくてはならないと思う。

ようつべである編集者の動画を見たら、プロ作家になる方法として、発信を続けること、1円でも稼ぐこと、とあった。昨年私は久しぶりに新人賞に応募した。結果は今年出る。どうなるかは分からない。だが、どちらに転ぼうと、ひとつ今年は、書いたものをお金に変えてやろうと思っている。

丑年である。夏目漱石芥川龍之介久米正雄に「牛のように」進むことを教えたそうだ。そのことをこのブログで書くのは初めてだろうと思ったが、ひょっとして…と思い直し、過去記事を探ったら、前にも書いていた。好きな言葉だから、書いていたのだ。だがそんなことはどうでもいい。干支が丑なのも偶然である。今年も、牛のようにやっていこうと思っている。

佐伯一麦『散歩歳時記』

佐伯一麦『散歩歳時記』(日本経済新聞社、2005年)を読んだ。本書はこのブログで前にも書いたが、山形新聞夕刊に「峠のたより」と題し、1995年11月から月2回連載されたエッセイを中心に、季節の話題を扱った佐伯の文章を編んだものである。

表紙には、紙飛行機の右翼の上に、ポケットに手を突っ込んで歩いている男らしい人間の姿があって、その全体が鮮やかな青色をしていて、背景の空間は白い。そんなに凝ったものとは思えないが、味わいのある表紙である。装画・装丁は柄澤齊

内容は上記の主旨を外さず、全体に、花鳥風月のことを身辺雑記を通して書いている。佐伯の伝記的事実はそこかしこに差し挟まれていて、私としては花鳥風月を愛でる文章よりもそちらの方が味わい深かった。

人生は一日で変わる

先日、明石家さんまが画商として無名の藝術家の絵を売っているテレビ番組を見た。その中で、かつてヴォラールという画商がいて、その人がピカソゴッホを有名にした、などと紹介されていた。画家の人生や名誉に、画商の力は多分に関与する。物書きにとって、編集者や先輩作家の存在が大きいのと同じようなものか。

番組ではさんまがお得意のトークと押しの強さで客に絵をどんどん売っていたが、無名でお金がない新進画家の絵が売れ、あまつさえ新しい絵の注文が出されたりして、大喜びする人や、涙を流す人がいた。バラエティ番組として作られたものだが、見ていて、ああ藝術家の人生はこうして一日で変わるんだなと思った。

小説家が新人賞を取るのもそうだろう。文藝五誌の新人賞はもちろん、芥川賞直木賞などは取れば人生が変わる気がする。三島賞や野間新人賞でも、取れば勢いがつくんじゃないだろうか。そんなことを考えると、若くしてデビューできないなんてことは何でもなく、辛抱強く書き続け、発信し続けることが大事だと分かる。

一方で、藝術家の人生は一日で暗転もするんだろう。芥川賞を取った作家がアルバイト生活をしている話や、生活保護を受けているなどという話も、どこかで読んだ記憶がある。それは一日でそうなったわけではないだろうが、編集者や読者が作家を見捨てるのは一瞬のことだろうと思う。

2021年はどうなるか

2020年が終わろうとしているが、振り返ると、とんでもない一年だったと思う。

世の中ではコロナ禍が世界的に広がり、私の仕事にも生活にもけっこう大きな影響を与えた。仕事の方では、これまで当たり前だった業務の進め方、お客さんや同僚との関わり方が変わり、一言で言えば、働き方が変わったのである。その変化には追われるように対応したが、心身への負担はじわじわと、緊急事態宣言が出てから夏、秋へとかけてゆっくりと出てきたように思う。その負担は思ったよりも重く、私の肌感覚ではまだちゃんと回復していない。ウイルスに感染したとか、発症したというわけではないが、それでもコロナ禍の打撃は大きい。

生活の方への影響も、かなり大きなものだった。長距離移動を減らしたことは、べつに私としては「様式」の変化とまでは思わなかったものの、詳しくは書かないがお金の使い方が変わった。行こうとしていた所に先方の都合で行けなくなったし、会う予定だった人に会えなくなった。つまらない一年になったとも言えるし、身近な人と過ごす時間や自分のことを考える時間を持てたとも言える。

コロナ禍以外のことに眼を向けると、身近な人たちに災難があり、いろいろと辛い思いをした。起きるとしてもまだずっと先だと思っていたようなことが起きてしまい、「覚悟」を迫られたこともあった。その傍らで、私自身も人生を進捗させなくてはならず、楽ではなかった。

コロナ禍も含め、これほどいろんな、歓迎するべきではない事態が起きた年は、これまでの人生でほとんどなかった。いや、初めてではないかとすら思う。2021年以降、世の中とか自身の生活がどうなるのか、さっぱり分からない。不安も大きい。だが、私にとって大事なのは書くことだというのは今後も変わらないだろう。