杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

バルザック「赤い宿屋」

バルザック「赤い宿屋」(『ツールの司祭・赤い宿屋』(水野亮訳、岩波文庫、1945年)所収)を読んだ。これは、1799年、フランス人の医学生のタイユフェルとプロスペル・マニャンが、オージュロー将軍率いる部隊に合流しようとする途上、アデルナハというドイツの小さな町の「赤い宿屋」に泊まり、その晩に同宿の商人をタイユフェルが殺害し、マニャンが無実の罪を着せられ処刑される、という話を、後年、マニャンが最期を迎える時に傍にいたヘルマン氏がある銀行家の催した晩餐会で披露し、なんとその席にタイユフェルが同席していたのだが、真の犯人がタイユフェルだと確信したこの小説の語り手の若者が、タイユフェルの死後、その娘と結婚して良いものかどうか悩み、知人をたくさん集めて相談するという、前半は怪異譚、後半は滑稽譚の形を成す短篇である。

面白く読んだが、これはバルザックの中では凡作の部類に入るのではないかと思う。前半の晩餐会の様子、またヘルマン氏が話す劇中劇におけるドイツの赤い宿屋はバルザック得意の描写力が発揮されているが、後半ではそれが活かされず、話の運びがやや性急で、作りが雑だとすら感じる。とはいえ、タイユフェルという人物を『ゴリオ爺さん』『ニュシンゲン銀行』『麤皮』などと併せて読んで知る上では重要な作品ではないかと思った。

「マイクロトラウマ」

そんな言葉があるのを最近知った。意味は、微小なダメージが蓄積され深刻な傷となること、またその微小なダメージ自体のことである。

「ちょっとした嫌な経験」は、一度や二度なら大した悩みの種にならず忘れ去られるが、難度も続いて蓄積すると大きな精神的ダメージになってしまうが、その手の経験は、微小であるために看過されやすいとのことだ。

その微小な経験とは、具体的には小言や否定的発言、矛盾した指示であるらしいが、たしかにこれらが積み重なるとやがて深刻なレベルに達するというのは、分かる気がする。私は以前、いくたりかの年長者から「お前は馬鹿だ」だの「ダメだ」だの言われ続け、次第に鬱々とした気分に浸されるようになっていった。

マイクロトラウマは身体的外傷についても用いられるらしいが、主たる要因は上記の通り、人間関係の中にあるのだろう。私は以前、上記の年長者の一人について、あいつは間違いなくモラルハラスメントをやる奴だ、と思ったものだ。マイクロトラウマは、モラルハラスメントを受けると現れるのではないかと思う。

職務の束

朝日新聞12月7日朝刊25面「働く」に、労働政策研究・研修機構研究所長の濱口桂一郎氏のインタビュー記事が載っていた。濱口氏は人事制度のスタイルで昨今よく言われる「ジョブ型」の名付け親であり、このインタビューでは、その言葉が「成果主義」の代替用語として使われている現状に反駁しつつ、今後起きるかも知れない雇用の問題を指摘している。

私は会社で働きながらライターという職務に従事し、その過程で仕事について雇用とか働き方について考えることが多いので、この記事は興味深かった。

その冒頭に、会社と働く人をつなげる方法が二種類あるとして、ジョブ型とメンバーシップ型を説明している。ジョブ型は、会社を「ジョブ(職務)の束」と考え、ジョブごとにそれができる人を当てはめるやり方。一方のメンバーシップ型は、会社を「人の集まり」と見なし、まず人を雇っていろんな仕事をさせるやり方である。ジョブ型ではジョブ・ディスクリプションが定められ、必要なスキルが明確であるのに対し、メンバーシップ型は新卒一括採用してビシバシ鍛える、日本企業に典型的なやり方とある。ジョブ型は本当の意味での「就職」で、メンバーシップ型は「就社」のイメージになる。

「職務の束」という言葉は分かりやすい。ライターという職務は、取材の段取りや実施、原稿執筆やその後の修正対応といったタスクが束を成しているのだろう。その他にデザイナーの職務、営業の職務、管理の職務といった束が集まり、会社を形成しているわけだ。もっとも、ライターとインタビュアーは違う人が担うこともあるし、修正対応はデザイナーが行う場合もあるので、会社ごとにライターのジョブの定義は様々だろう。

行動

勉強、練習、試合が大切だとこのブログで書いたが、勉強や練習は「努力」で、試合は要するに「行動」だと思う。行動するというのは、他人や、会社などの組織と目的をもって関わることで、そこで、良きにつけ悪しきにつけ努力の成果が出てくるのだ。

時間を作って小説を書くための勉強をして、実際に書くまでは努力。それを新人賞などに応募したり文学フリマで売ってみたりするのが行動。ブログで価値ある情報を世界に向けて発信するのも一つの行動だろう。努力はものすごく大事だけれど、どれだけ努力をしても行動に移さないことには何の意味もない。

努力はしているけれど行動していない人が、けっこういる。行動は、しばしば努力とセットになる。例えば小説を発表することは、結果が出ればそれが一つの学習になり、次作に磨きがかかるからだ。だから行動が一番大事なのだが、その結果を受けて勉強も練習もしないのは困りものである。また、「忍耐」を努力と勘違いする人がいて、単に長時間労働に耐えてるだけなのに「頑張ってる」とか言うのだが、それは忍耐に過ぎないと思う。努力はその時間を自分の持ち時間から捻出して行うもので、基本的に私的な行為だろうと思っている。

自己陶酔はどんな助言も無駄

ある人が、人間は集団の中にいると狂気に陥るらしいと言っていた。狂気というとおっかない感じがするが、その人は連合赤軍事件について語っていたのである。その人は同時に、孤独になることで陥る狂気もあると語っていた。

狂気とまではいかないものの、人間ってやはり集団の中にいると、いくらか思い込みに沈むというか、暗示にかかりやすくなるのではないかと思う。

私が知っているある会社では、特に一部の若手社員の、仕事へののめり込み方が、何らかの思い込みによるものではないかと感じさせるものがある。若手たちの発言を聞いていると、仕事に快楽を感じているというより、キツい仕事に没入している自分に陶酔しているように感じられる。少年漫画の登場人物か何かのように、激烈な仕事をやっていることを通して、かなり安っぽい…ヒロイズムめいた感慨に浸っているようなのだ。激烈な仕事とは、具体的には長時間労働や深夜残業、休日の返上といったものである。そういうのをやる自分に、何かの犠牲になっているという意味のカッコよさを感じているように見受けられる。

私は仕事の中身に面白みを感じることはあり、その仕事に取り組むことで快楽を得るが、何かを犠牲にして激烈な仕事をやることに陶酔など覚えない。やるとしても、憤慨しながら、あるいは諦めて、粛々とやるだけである。どうして若手社員たちはそういう自分に陶酔するのか。それは、そういう価値観を持つ人が複数いる集団の中にずーっといて、暗示にかかってしまうからではないか。そんな風に思う。

けれども、陶酔はやがて冷めるのである。ある時、自分の人生はやっぱりこれではいけない、と思い直し、集団を去ることになるのである。そういう例は、たくさん見てきた。その様は、冷めるというよりバーンアウトで、その後は一定期間のリハビリが必要になったりする。若手たちを見て、自分に陶酔なんかするな!と思うが、これは自分で気づくしかないもので、他人が何を言っても無駄である。それは私自身、経験を通して知っている。

オタクの力

仕事の喜び(報酬)は、外的なものと内的なものとがあるようだ、前者は、給料やボーナス、昇進、表彰など人から与えられる物である。後者は、達成感や使命感、好奇心など文字通り内側から出てくる欲求を満たすことである。

あるネット記事を読んでいて、仕事にモチベーションを持ち続けられる人は、外発的動機付けでなく内発的動機付けで働く部分を持っている、とあった。そして、趣味や遊びはまさに内発的動機付けで行われると言い、例として鉄道オタクの行動を紹介していた。

かつてあるツイッタラーが、最後に勝つのは思想やロマンを追う人でなくオタクだ、といった意味のことをつぶやいていた。そうだと思う。意志とか、世のため人のためとか、お金のためとか、そういうのも強い動機にはなり得るだろうが、やはり最後まで続くのは、好きかどうか、楽しいかどうか、ということだろう。

「神は天に在り、この世はすべてよし」

そんな言葉を最近、ある人のブログを通して知った。それで調べてみたら、これはイギリスの詩人ブラウニングの詩の一節らしく、『赤毛のアン』の第38章にも出てくると、『アン』を全文訳した松本侑子が紹介していた。

意味は、できるだけのことをやったら、すべては天の神が守ってうまく取り計らってくれるので、信じて未来に胸を膨らませよう、といったことらしい。「人事を尽くして天命を待つ」ではないか。

私は無宗教なので神とか天とか天命とか、あまり考えもしないしすがりもしないが、こういう言葉は好きである。できるだけの努力をしたら、あとのことはもう自分の力では動かせないので、流れるに任せるしかない。そして、そこに悔いはないのである。

ワナビは自分ではどうにもならないことを嘆いて、こじらせてしまうと日常生活の人間関係にも支障をきたすほどになるが、作家ワナビの場合だと、書いて書いて書きまくるしかない。書いて書いて、それを発信しまくるしか突破する道はないのだと思う。扉は、開くとは限らない。押し続けなくては決して開かないが、自力だけでは開けられない。天命を待つのみなのだ。未来に絶望していては扉は開かない。希望を持って胸を膨らませているのが良い。