杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

図書館雑感2

普段使っている地元の図書館には予約サービスがあり、これを利用しまくっていることはもちろんなのだが、予約件数の制限(10冊)に達してしまってそれ以上予約できなくなることがしばしばある。これまで、そういう時はいくつかの予約を取り消して制限未満にしてから借りたい本を改めて予約するようにしていた。けれども最近は、取り消しても構わない本がなく、仕方がないのでカートに入れておいて、予約した本を借りて件数を減らしたら即カートから予約するようになった。図書館ヘビーユーザーを自認している私だが、いよいよ堂に入ってきた感じがしている。ちなみにそんなことをしている図書館はまだ地元図書館だけで、職場近くの図書館は昔の文藝誌をちょくちょく借りているだけで、予約件数も制限に達していないし、カートに入れることもない。職場から近い図書館ということもあり、基本的には平日以外は足を運ばないので、さほど使いまくることはない。平日は忙しいのである。都立図書館など地元以外の図書館に協力貸出を依頼することがときどきある。大宅壮一文庫もたまに使う。他県の県立図書館にローカル新聞を閲覧しに行ったこともあるが、そこまでするのは稀で、だいたい地元の図書館かネットからの予約で事足りる。実に便利である。国会図書館は使ったことがあまりないが、今後、求める資料によってはいよいよあそこへも足を運ばなくてはならないだろう。図書館ヘビーユーザーが堂に入ったと書いたが、まぁ、まだまだ上がある。

赤塚地域で行われていたお月見飾り

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今年は10月1日(木)が旧暦8月15日にあたるということで、板橋区立郷土資料館の旧田中家では十五夜のお月見飾りを再現している。9月26日から10月4日まで見られるというので、さっそく見てきた。

再現されていたのは、徳丸安井家と赤塚池田家のお月見飾りである。安井家は江戸時代の名主だったことの名残で団子が大きく、池田家の方は農家らしく箕を使い、団子は普通の大きさであるなど、それぞれ特徴があり、趣がある。

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団地育ちの私は日本の年中行事をほとんど知らないのだが、月見というのは、田畑の収穫物を供えることから収穫祭的な意味があるらしい。団子を十五夜には15個、十三夜(旧暦9月13日)には13個供えるというので、写真を撮った月見の団子の数はたぶん15個。飾り付けは「博物館実習生」が行ったらしい。これは、歴史・考古・民俗系の学問を専攻している区内在住の人である。

八木義德と吉村昭

佐伯一麦『からっぽを充たす』(日本経済新聞出版社、2009年)の「カナカナの起床ラッパ」は、吉村昭の訃報を受けて吉村の思い出を語る内容である。その前半で、吉村昭に最後に会った時のことが書かれている。1999年11月に行われた八木義德の葬儀でのことで、佐伯が司会を務め、吉村が葬儀委員長だったのだ。八木の葬儀に佐伯が参列したことは、佐伯の『読むクラシック』(集英社新書、2001年)にも間接的に書かれている。

その時、吉村は佐伯に、同人誌を出していた学習院大学時代に、八木の家を訪れて批評を仰いだのが八木との最初の縁だったと言ったようだ。

このことをもっと知りたいと思って調べたら、「文學界」2000年1月号に、1999年11月に死んだ八木義德の追悼企画「追悼●『文学の鬼』八木義德」が載っていて、吉村昭原田康子堀江敏幸、妻の八木正子が寄稿している。

吉村の寄稿「大きな掌」は、八木への敬愛の情を感じさせるいい文章である。これを読むと、吉村が初めて八木を訪ねたのは1952年の夏で、届けた同人誌には吉村の「虚妄」という短篇が載っていたことが分かる。八木は最後は町田市の団地に住んでいたが、この頃住んでいたのは横浜市の東寺尾で、吉村が訪ねた時は八木は不在で夫人が同人誌を受け取った。その後、吉村は何度も八木宅を訪れ、同人誌の合評会にも来てもらったことがあったようだ。八木は文学の同志としての思いからか、吉村からの謝礼を断るなど、無償で接していた。町田市に引っ越した時、吉村は移転祝いとして「床ヌプリ」というアイヌの彫刻家が作った木彫りの置物を持って行った。

葬儀については寄稿の末尾に書かれている。葬儀が行われたのは11月15日午前10時からで、場所は町田市の南多摩斎場。高橋英夫三浦哲郎のほか、町田市長や室蘭市長も来たようだ。寄稿には佐伯の名はないが、ここで佐伯と吉村が言葉を交わしたのは、「カナカナの起床ラッパ」にあるので確かである。

バルザック「沙漠の情熱」

バルザックの「沙漠の情熱」(『知られざる傑作』(水野亮訳、岩波文庫、1928年)所収)を久しぶりに読んだ。この作品は訳注によると、初出は1830年12月発行の「パリ評論」で、1937年の「哲学的研究」第16巻において初めて書籍収録された。その後、1846年に出た「人間喜劇」の「軍隊生活場景」に収録された。本書の作品末尾には「パリ 一八三二年」とあるが、その日付は誤りであるらしい。なお霧生和夫『バルザック』(中公新書、1978年)には「人間喜劇」91篇の作品名が年代順に掲載されているが、「沙漠の情熱」というタイトルは見当たらない。

バルザックの短篇について、本書の訳者の水野亮は「二十何篇かの彼の短篇が、みながみな傑作とはいえないにしても、なかには相当よみごたえのある作がないわけではない」と述べつつ、「沙漠の情熱」をはじめ本書に収められた短篇については、「かならずしも定評ある傑作ばかりをあつめたのではない」と述べている。

さて「沙漠の情熱」は、猛獣使いの藝を見物した者同士が、人間が猛獣をどう操るかについて話し合う中で語られる、ある軍人の体験談として展開される。軍人の体験談とは、メスの豹と一定期間、共に過ごした後にその豹を殺した、というものだが、末尾に書かれていることがいちおうこの短篇の「落ち」になるのだろう。率直に言って、べつに傑作とは思わないのだが、砂漠とそこに棲む豹の描写が精巧ですばらしく、それだけでも読み応えがあると思う。

この中で名前が出てくる人物は「マルタン」くらいで、これが「人間喜劇」の再登場人物に入っているかどうかは分からない。「沙漠の情熱」が「人間喜劇」の主たる作品に入っていないのは間違いないが、このようなたわいない作品もあることが、その世界の豊かさでもあるように思う。

バルザックの献辞

バルザックの小説はたいてい献辞がついている。どの作品も、バルザックが親愛の情を寄せる人がその対象になっていて、各作品を献辞の相手について訳注の解説だけ読むのも、バルザックの交友関係の一端が窺えて一興である。

『従妹ベット』はダンテ注釈家ミケランジェロ・カエターニで、バルザックがダンテの詩の思想的骨組みを会得させてもらった相手である。『ゴリオ爺さん』は博物学者のエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールで、生物界における組成の統一性を唱えた人であるらしい。『農民』はパリの代言人シルヴァン・ピエール・ボナヴァンチュール・ガヴォー。バルザックの友人であり法律顧問をしていた人でもあって、バルザックが投機的に買った土地の清算に力を貸した人である。『谷間のゆり』は王国医学院会員の医学博士ジャン・バチスト・ナッカールで、パリで家が近かった関係からバルザック一家と親交があった。この人はさらに、バルザックの『クロンウェル』の朗読に立ち会い、友であっただけでなく主治医でもあった人で、金銭的援助はおろか、バルザックの臨終にあたり最後まで脈を取っていた。バルザックのステッキを形見の品として受け取ったそうな。

「ツールの司祭」は彫刻家ダヴィッドである。この人はバルザックの胸像を作った人だが、岩波文庫の訳注には、ダヴィッドは何度も胸像製作の希望をバルザックに伝えたが本人がまだその時期ではないと辞退したという、バルザックにしては珍しい謙遜のエピソードが紹介されている。

『「絶対」の探求』は陸軍給養局長の未亡人ジョゼフィーヌ・ドラノワ夫人で、バルザック家とドラノワ家はごく親しい間柄であったらしく、バルザックは借金に追い詰められた時しばしばドラノワ夫人に金を借りていた。『セラフィタ』はハンスカ夫人である。

手元の文庫をいくつか取ってめくってみただけだが、学者から藝術家、夫人まで、バルザックの色んな交友関係が見て取れて面白い。中には相手が誰だか分からないという奇妙なものもある。「知られざる傑作」の献辞である。「なにがし卿に」と書かれ、点線が四行にわたって記された後に「一八四五年」と書いてある。私は最初これを「知られざる傑作」の本文の一部だと思ったが、訳注には、何らかの意図があって姓名と献辞を伏せたのか、根拠のない冗談か、作品の意味を暗示したのか、それらがまだ研究されていないと書かれている。

知性か教養か

細谷功地頭力を鍛える』(東洋経済新報社、2007年)を読んでいる。これは「問題解決に活かす『フェルミ推定』」という副題がついていて、「フェルミ推定」に興味を持ったので読んでみようと思ったのだ。

フェルミ推定」とは、実際には計算が困難な事柄をいくつかの一般的な前提条件を元にして概算することで、ビジネスの世界ではポピュラーなものだそうだが、知らなかった。「フェルミ」はノーベル賞を受賞した物理学者エンリコ・フェルミで、フェルミが弟子に出した「シカゴにピアノ調律師は何人いるか?」がフェルミ推定の問題として有名である。フェルミは原爆が爆発した際にティッシュペーパーを落とし、それが揺れた大きさから爆風を計算し爆発のエネルギーを見積もったという。すごすぎる。

さて本書は、大矢壮一はテレビの普及した世の中に警鐘を鳴らして「一億総白痴化」と言ったが、ネットの普及した今の世の中はますます人が頭を使わなくなり、そうしたことへの危機感からビジネスパーソンの間ではロジカルシンキング脳力開発がブームとなり、数独が海外でも流行っていると述べる。また、本書では「頭の良さ」を「知識がある」「機転が利く」「地頭が良い」の三つに分類し、中でも地頭を問題解決能力として特に重視している。ちなみに三つの中で最も軽視されているのが知識で、なぜなら現代は情報が等しく誰もが入手できるようになり、また変化の激しい中ではその陳腐化が激しいからだと述べている。

なるほどそうかも知れないと思った。が、ちょっと不服もある。機転が利く、地頭が良い、は「知性」という言葉で一括りにできそうだが、たしかに仕事の成功という点では単なる知識よりも知性の方がずっと大事だろう。けれども、知識、ひいては教養がもたらす生活や人生の豊かさは、知性からは安易に得られないと思っている。仕事の成功と日々の生活の楽しさはどちらが大事かと言えば、それはやはり日々の生活だろうと思えるし、私の考える教養はおおむね歴史を指すが、経営者は歴史に学ぶことが多い気がする。だから大切なのは教養ではないかと思うが、やはりそれだけでは駄目で、それを有効に使える知性も身につけなくてはならないのだろう。

言語化される職人技

あるネット記事に、いわゆる「職人技」はその八割を言語化できる、ということが書いてあった。

こういう類いの言説は、近年よく耳にする。寿司の職人を目指すのに寿司屋に入って何年も修行するのはバカだ、というツイートは有名だし、現にそういう修行をしていない寿司屋が一年足らずでミシュランの星を取ったらしいので、実際その通りなのだろう。

私自身、体で覚えろとか言って言葉で伝えないのはおかしいと最近は思うようになっている。これは、自分が後輩を指導するようになってから如実に感じていることである。明確な言葉で伝えなくては後輩にはまず伝わらないし、私が発する言葉に矛盾があると後輩は納得もできず、それどころか混乱し、物を覚えるどころではない。

また、テニス部の球拾いのような、どう考えても意味のない仕事を何年もやることでようやく組織のメンバーとして認められるというような「メンバーシップ型」の組織や育成の仕方にも疑問を感じている。

職人技のみならず、スポーツやクリエイティブの高度なテクニックも、恐らくだいたいは言語化できるのではないかと思う。レンブラントだったかフェルメールだったか、昔の有名な画家のタッチを習得したコンピュータが、本人の作品だと間違われるほどの絵を描いた、という話を聞いたことがあるが、これなどはクリエイティブどころかアートの領域まで言語化できているということではないか。

ある作家は、自分は泉鏡花の文章を真似ようと思っても決してできない、と言っていたが、それすらも覆される日が来るかも知れず、またその日はそう遠くないかも知れない。