杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

書く覚悟

なんか駄洒落みたいなタイトルになったが、最近は書き物のライフワーク以外のところで様々な諸事雑務が発生して、書き続けるのが難儀になっている。

この諸事雑務、なかなか安易に退けることができず、ちゃんと向き合わなくてはならないことでもあり、つい書き物のことが頭から飛んでしまう。

そういう時間が長く続くと、ときどき、もう書き物の生活には戻れそうにない、などと思えてくることがある。実際、書き物というのは一日離れるとその主題やストーリーが遠景になるまで遠のき、二日経つともう見えなくなる。三日もすれば、思い出すのに時間がかかるくらいになる。勤め人をしながら物書きをやる大変さというのは恐らくこの点が特に大きいのではないかと思う。

そういう状態にいると、どうしてこんな思いをしてまで続けなければならんのか、もうやめようか、などという思いが頭を掠めることがないではない。そういう自分を認めたくないが、事実なんだから認めざるを得ない。

書き物なんてぜんぶほっぽり出して、気になる諸事雑務の方へ赴けば、恐らくずいぶん楽になるだろう。が、私はやはり書きたい。諸事雑務は大事だし逃げるわけにいかないが、何があろうと書くことを人生の第一事項に置く。それが私の書く覚悟である。

おくのほそ道主義

ある人が、皆、毎日の仕事を何気なく流れでやっているかも知れないが、実は奥が深いものなんだぞ、などと述べていた。それを聞いて私は、ああ出たな「おくのほそ道主義」と思った。

物事は何でも、突き詰めればいくらでも深く掘り下げることができる。仕事も同じで、小さな仕事でも極めようと思えばいくらでも細かく、難しくなる。皿洗い、トイレ掃除、新聞配達…これらは一見すると人間性や創意工夫を入れる余地がない仕事かも知れないが、究極的には創意工夫でき、藝術的な仕上がりにすることは可能だろう。

皿洗いやトイレ掃除にそういう「おくのほそ道」を見出し、勝手にやる分には問題ない。おくのほそ道というのはそういう世界であり、勝手にやるんだから孤独なのである。しかし、皿洗いを極めろ、とか、トイレ掃除を藝術的にやれ、とか他人に言うのは言われる側としては迷惑な話でしかない。冒頭に紹介したある人の言葉にはまさにそういう響きがあったのだが、私は共感できなかった。ミスを防げ、とか、丁寧にやれ、とか言うならまだ分かる。しかし、いくら「奥が深い」と言われたってその仕事にそれほどの興味がなければ関係なく、極めるほどの興味を持たなければならないわけではない。

クリエイティブの世界に身を置いていると、この種のおくのほそ道主義的発言がたまに耳に入ってくる。そういう発言をする人にとってはどんな単調な退屈な仕事でもクリエイティブな作業なのであり、そればかりか、その業務に携わる人はそこにクリエイティビティを盛り込まなくてはならないようなのだ。私はそういう言説が苦手である。

設計図

星山博之のアニメシナリオ教室』(雷鳥社、2007年)を拾い読みしているのだが、これは隠れた?名著かも知れないと思っている。

「1日目」の第3項「シナリオライターは何をするのか?」は、「一言で言えば映像の設計図をつくることである」とある。そして、

 家の建築は設計図がいい加減のものだったら絶対に良いものができないことを想像して欲しい。大工や内装がどんなに頑張っても、設計の欠陥は穴埋めができない。

とある。上記を読んで、良きシナリオから悪しき映画ができることはあるが、悪しきシナリオから良き映画ができることは絶対にない、という黒澤明の言葉を思い出した。もちろん物の良し悪しは究極は相対的なわけだが、ここで言う「絶対に」は、要するにシナリオ作家としての気概が示されているのだと思う。設計が良くないと完成品が良くならないというのは、小説も恐らく同じだろう。

なんでも屋サラリーマン

真山仁の『ハゲタカ』(講談社文庫、2006年)の、日本のサラリーマンを批判的に書いている箇所を読んで、考えさせられた。

欧米では、職業を尋ねられて会社員だの、サラリーマンだのと答える人は誰もいない。彼らはそれぞれ自らの「仕事」を明確に答える。バンカー、証券マン、あるいは工場労働者でありウエイトレスだ。しかし、日本人はなぜかみな「サラリーマン」と胸を張って答える。これが、嘗てこの国を経済大国に押し上げた原動力であり、またバブル経済が崩壊しても右往左往するばかりで傷を大きくしてしまった原因でもあった。

この三人称体の文章の前には外国人の登場人物が日本の「サラリーマン」を小馬鹿にするようなことを言っていて、上記引用も、どちらかというと批判的だろう。

日本の就職活動は就職ではなく「就社」だというし、企業の採用の仕方はジョブ型でなくメンバーシップ型だともいう。そういえばこないだ話を聞いた、ある会社のあるベテラン社員は、若い頃の自分は会社のさまざまな種類の業務をやって「なんでも屋だった」と誇りかに言っていた。私はそういうのがたまらなく空しく聞こえるが、『ハゲタカ』にある通り、それが会社の成長の推進力になったのは恐らく事実なんだろう。

ものさし

ようつべで何気なくビジネス動画を見ていたら、ある社長が、何事も最後は自分の中のものさしで測れ、というようなことを言っていた。

これはまったく同感で、他人の意見に参考程度に耳を貸すのは良いが、最後は自分の腹に落ちる判断をしなくてはならない。ところが、お人好しとか自分に自信がない人は、しばしば他人のものさしで物事を測り、判断してしまう。私の二十代の頃はまさにそんな感じで、自信たっぷりの人に心酔してくっついていたし、その人の価値観を自分の価値観にして、それにそぐわない人を小馬鹿にしたりしたものだ。

今はいくらかマシになったと思うが、それで感じるようになったのは、かつての私とは逆の、自分のものさしでしか物事を測れない人が世の中にはいるということだ。自分と他人が違うものさしを持っているのは当然だが、他人には他人のものさしがあることを理解できない人がいるのである。

自分が良いと思ったものは他人も良いと思うと思って疑わない。良くないと思う場合も然りである。そういう人におおむね共通するのは「自分大好き人間」であることで、自己陶酔的でもある。

思えば私がかつて心酔していた相手はそういう人だった。自分のものさしでしか物事を測れない人と付き合っていけない。心身ともに消耗してしまうから。

永遠に続く道

私は精神論とか根性主義というのが苦手で、というのは、それを信奉すると自分の義務が無限になってしまうからである。

例えば仕事の中で、業務は言われたことだけやればいいんじゃない、とある人から言われたことがある。しかし、では具体的に何をやればいいかは言ってくれず、察するに、つまりは仕事やお客さんに愛情を持て、とか何とか言いたいようなのだ。

仕事に愛情を持つことは否定しないが、仕事には愛情がなくてはならない、と強要してくるのは精神論の一種だと思われ、許容できない。論理的には、言われたこと以外のこともしなくてはならないなら、仕事は無限になる。百個の指示を与えられてそれに対応したとしても、さらにそれ以外のこともしなくてはならないのだから当然である。

根性主義者や精神論者は長時間労働や深夜残業を厭わないが、それはつまり精神的に満足感を得るまで仕事が終わらないからである。つまり答えがない世界でずっと働いているわけで、永遠に続く道を歩き続けているのである。藝術じゃあるまいし。こういうのはどうも苦手である。

要素還元主義

こないだある本で「要素還元主義」という言葉を見つけた。これは複雑な物事を細かい要素に分解し、その一部のみを理解すれば複雑な物事全体を理解できるはず、と考えることであるらしく、自然科学において生命などを考える方法のようだ(よく分からん)。

さて、私はこの言葉にピンと来た。私は、仕事とか生活における諸問題を理解して改善するのになるべく問題を細かく分解する癖があり、小問題を一個ずつ解決していけば大問題も解決できると考える。これは本来の意味とずいぶんズレがあるようだが、私は本を読んで、ほぉ、俺はもしかしたら要素還元主義者かも知れんなと思ったものだ。

実際、例えば会社の現場で起きている問題などを、いくつかの要素に細かく分解して解決しようとするのを要素還元主義的だと言うことがあるようだ。

しかし、労働やビジネスの問題を要素還元的に考えるのは批判される傾向があるようで、どれだけ細かく分解したところで全体の解決にはつながらんぞ、という言説もあるようだ。たしかに、組織がちゃんと機能していない問題を細かく分解し、小問題を一つずつ解決していったとしても、それで組織が良い方向へ行くとは限らない。計算やうわべだけの対処では効果が出ないことがある。

そんなことは分かっているのだが、会社という組織には派閥があればマウンティングもあり、精神を磨り減らしたり、自分を見失いそうになったりすることが多い。そういう場面にあっても自分を失わず、まともであり続ける上では要素還元主義は効果があると思うのだ。