杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

『市民ケーン』とロバート・ワイズ

シド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社、2009年)の最初の方にオーソン・ウェルズの『市民ケーン』について触れているところがある。

 この映画を編集したのは、巨匠ロバート・ワイズ(『ウエスト・サイド物語』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『砲艦サンパブロ』などの監督)だった。ウェルズは、撮影したニュース映画部分が当時のフィルムに見えるように手を加えさせた。ワイズは、そのフィルムをよじって、編集室の床で引きずった。それによって、当時のニュース映画のような感じに仕上がったのである。

市民ケーン』は何回か観ていて、ニュース映画の箇所があったのは記憶しているが昔のニュース映画のような質感だったかどうかは覚えていない。だって『市民ケーン』にしてからが、すでに私にとって大昔の映画だったのだから…。

そういえばウィリアム・ワイラーの『ローマの休日』では最初にニュース映画の映像が出るが、昔の映画館では本編上映前にニュース映画が流れるので、その流れで自然に映画に入りアン王女のことが本物のニュースぽく見えるようにするためにそういう流れにした、とどこかで読んだ記憶がある(はっきり覚えていない)。

それにしても、『市民ケーン』の編集を『サウンド・オブ・ミュージック』のワイズがやっていたというのは知らなかった。

眠るのが下手

勉強とか創作のために眠る時間を削るのを学生時代から当たり前にやっている。その一日、ライフワークを少しでも進展させなくては気が済まない質で、会社の仕事にプラスで勉強や創作をしないと心が落ち着かないから、どうしても夜遅くまで机に向かってしまう。睡眠時間を削ってしまうと昼間のパフォーマンスに悪影響を及ぼすので、これはサラリーマン生活を送る上では悪癖というべきだろう。

そんなことはとうに気づいていたはずなのだが、睡眠なんて取らなくても大丈夫、むしろ寝てる暇があるならその時間を有意義に使うべきだ、などと若い頃に思っていたのが尾を引いていて、今も何かあるとすぐに睡眠を削る方に行動してしまう。睡眠をろくに取らないでハイパフォーマンスを見せる超人的な人は実際にいて、若い頃そういう人に尊敬の眼差しを向けていたこともあったので、意識の根深いところに睡眠を軽視する傾向がある。

そういう次第で、眠りが蔑ろにされる。要するに眠るのが下手なんだろう。何とかしなくてはと思う。

調べ物はアクション

地元のある町の自治会の周年記念誌を図書館で見つけたので読んでみたら、地元にかつて芥川賞候補になった作家が住んでいたことが分かって驚いた。

と同時に、その作家が地元の文藝誌に参加していたことを知って、地元に同人誌めいた集まりがあったんだという驚きとの二重の驚きになった。作家のことはともかく、文藝誌の存在は一般にほとんど知られていないことだと思うので、調べがいがあると思っている。

ところで、「調べる」という行為は一種のアクションだろうと考えている。近頃はコロナ自粛もあって必要がない限り電車にすら乗らない。だからというわけではないが、自然と調べ物・書き物の方に関心が向く(とはいえ仕事が忙しいとそれすらままならなくて参ってくるのだが)。で、この調べ物という行為は明確な目的意識を持つ。そして調べる主体は、書物であれ人物であれ何らかの事件・事故の現場であれ、そこへ一直線に向かっていくことになるので、ある意味で洗練されたアクションと言えるのではないか。

その過程は、ストーリーになる。大江健三郎の小説には書物の世界を追究する過程が小説の題材になっているものがあるし、『或る「小倉日記」伝』も一種のテキスト追究小説と言えるだろう。

カード

シド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(安藤紘平、加藤正人、小林美也子、山本俊亮訳、フィルムアート社、2009年)をぱらぱら読んでいて、シナリオの構成をカードで考える手法について書かれている箇所があった。

そういえば橋本忍が『砂の器』でシーンをカードに分けて書き、それらを並べ替えながら、どういう構成にするのが最も劇的効果が高まるかを考えた、みたいなエピソードをどこかで聞いたことがあった。事実ではないかも知れないが、確かめていないのでわからない。

このカード手法は恐らく小説でも使えるはずだが、誰かが使ったという話は聞いたことがない。時系列を分解して並べ替える小説はあるし、「オイディプス王」にもそういう側面はある。効果が出るならそうすればいいんだろう。あまりやり過ぎると何が何だか分からなくなりそう。

馬鹿雑感

世間では「馬鹿」という言葉が肯定と否定の二つの使われ方をしている。多いのはやはり否定の方で、これは「間抜け」みたいな意味で使われる。一方の肯定的な使われ方は、あれこれ頭で考えず熱心に取り組む、いわば「愚直」の意味で使われていて、ある人が言うには、経営とか発明で成功した人の多くは馬鹿らしい。

最近思うのは、世間のいわゆる馬鹿というのは、肯定にしろ否定にしろ、勉強ができないとか、論理が破綻しているとか、筋道だった考え方や構造的な思考ができないとか、そういうのとは関係ないのではないか、ということだ。いわゆる馬鹿とは、対人関係(もしくは他人も見ている公共の場)で不味いことをやってしまっている人のような気がする。SNSの他人の発言を見ていて、よくそう思う。

馬鹿にされる人というのはたいてい、妙に自己顕示欲が強く、自意識過剰で、それが裏目に出て言う必要のないことを言ってしまっている人である。他人より秀でるものがないにも関わらず自分は優れた人間だと思っていて、なおかつ勉強や練習といった努力をしないままああだこうだと言う。けれどもすぐに矛盾や論理破綻などを指摘され、困った顔をして、馬鹿だと言われることになる。もったいないことだ。いい加減な発言をしないだけで馬鹿の謗りを免れられると思う。

ジワジワ…

コロナ禍の苦痛はジワジワ来る。私の場合、収入面の打撃とかよりも、読書時間が減ってしまったこととか、外出が減ったことの躰への影響とか、そういうのが時間が経つにつれてジワジワとやってきている。人と話すのもリモートですることが多くなり、パソコンの画面ばかり見ているので眼も疲れやすくなっている。これもジワジワ来ている。

「新しい生活様式」という言葉は建築を専門にしている人には違和感があるようだが、マスクをするとか接触を避けるとか、感染防止を励行すれば現実にある程度、生活習慣や活動の仕方を変えざるを得ないだろうと思う。

しかし考えてみると古くはテレビとかゲームとかネットとか、団地の大量建設とか、スマホの登場なんかも多くの人の生活に影響を与えてきたはずだから、変化はジワジワと、かつ確実に起きているわけだな。

「テキシコー」

Eテレ「テキシコー」は小学校3から6年、中高生までも対象にした、映像やアニメでプログラミング的思考(テキシコー)の面白さを伝える番組である。番組では、「テキシコー」を以下の五つの思考に分解し、整理している。

1 小さく分けて考える
2 手順の組み合わせを考える
3 パターンを見つける
4 大事なものだけぬき出して考える
5 頭の中で手順をたどる

以上を様々な映像やアニメを使って分かりやすく解説してくれるのだが、その中で、紙の上のチリを、運動場をキレイにするトンボのような道具を使って掃除する手順は最短で何回か、というアニメがある。これなどは、見ていると仕事の最短手順を探る方法に似ているなと思えてきて、面白い。

ライターの主な仕事である取材・原稿執筆で考えると、これは間違った手順で進めているんじゃないかと感じることが自他共にたまにある。記事の構成や言葉遣いについて、ああでもないこうでもないで悩んで時間だけが過ぎてしまうことがあるが、これなどは恐らく正しい手順を踏まずに進めているからで、ちょっと前の工程に戻ってきちんとやり直せば意外とスルッと行けてしまうものだ。

正しい手順を踏んで進めることを忘れないようにしたい。