杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

倉木まり恵とベティ・ブープ

最近までベティ・ブープを知らなかったのだが、このたび大江健三郎『人生の親戚』(新潮文庫、1994年)を読み、主人公の倉木まり恵が「ベティ・ブープの面影」を感じさせる人物として書かれているので、ベティ・ブープを調べてみて「ああこのキャラか」と思った。キャラを見たことはあったが、それがベティ・ブープと呼ばれるのは知らなかったのだ。

小説の登場人物を実在の人物に似ているとして書いた例といえば、すぐ谷崎『痴人の愛』のナオミ(メアリー・ピックフォード)が思い浮かぶ。これはこれで、ナオミの姿を想像するのに都合がいい。他にも例は多数あるだろうが、パッと出てこない。

一方のベティ・ブープは実在人物でなくキャラクターなので、ではリアリティを減じる結果になったかというと、そんなことはなかった。ベティ・ブープそのものが誰かをモデルとしたキャラクターだったはずだし(ヘレン・ケインという歌手がモデルらしい(Wikipedia))、ベティ・ブープのような外見と雰囲気をたたえた女性を私は見たことがあると思う。

小説の登場人物を、実在・非実在に関わらず一般に知れ渡っている人間に似ているとして書くのは、利益はあっても損はないような気がする。否、ようするにそのやり方の成功と失敗は、比喩の成功と失敗と似たようなものだと思う。もし、誰々に似ていると書いて読者が違和感を抱いたら、それは方法が悪かったというより、作家の例の選び方が不味かったということだろう。

「社員は家族」

もうずいぶん前の話になるが、ある会社の経営者が、社員は俺の家族だ、と言っていた。その人は一方で、労働組合が嫌いだ、とも言っていた。経営と組合を対立構図で捉えていたのかもしれない。

しかしその経営者は、自分の会社の社員が通勤中に事故を起こし、四十日も入院したのに、「お前は勝手に事故を起こして入院したんだ!」と怒鳴り、労災の手続きをしようとしなかった。

社員を自分の家族だと思っているなら、通勤中だろうが私的な時間だろうが、事故を起こしたら入院費も治療費もふつうは出すはずである。私は自分の家族が事故を起こしてお金がないと言ってくれば、できる限りのことをする。しかしその経営者は社員に対し、労災の手続きをせず、助けようとしなかったのだ。

もっとも、その社員はその会社の正式な社員ではなく(事実上の常駐のフリーランスだった)、会社としては入院代や治療費を保険で出すことができなかったので、経営者はそういう突っぱね方をしたのである。その社員は実は自分が正社員ではないことを知らなかったので、泣き寝入りをして、ようするに単なるバカなのだが、経営者はその社員に対しても「お前は俺の家族だと思っている」と言って手なづけていたのである。

何事もない時には「お前を家族だと思っている」とか言っておいて、いざという時には他人のツラをするのは悪質な欺瞞ではないか。

上記のエピソードは例として良くないが、経営者が言う「社員は家族だ」式の言葉は、少なくとも社員側は眉唾と思って聞いて損はなさそうである。それはやはり、家族という関係は仕事の関係を超えるものであり、仕事の関係をそこまで深くするのは容易ではないと思うから。もちろん、経営者と社員たちが家族のような間柄になっている会社が存在しないと言うつもりはない。

白状すると、上記の「社員」は私である。

世代論について

最近、世代間ギャップについて考える機会があったのだが、果たして世代論なんてのは成り立つのかどうか、という疑問を持った。

私は縁あって全共闘世代の人をいくたりか知っており、それなりの交流もあった。あの世代の人は押しなべて、やたら政治への関心が高いというか、変わったこだわりを持っているようで、なるほど全共闘の人たちってこうなんだ、と思わせるものがある。バブル世代の人などは、髪型とか服装を見ると特徴が現れているように感じる。

そう考えると世代論というのは一定の正当性があるように思えるが、それは多分、日本人は大人しいとかイタリア人は愛とか歌が好きだとかいうのとほぼ変わりないレベルだろう。

全共闘世代の中にもちゃんと大学に行って勉強していた人はいるし、バリケード封鎖をした人たちに憤っていた人もいる。狂乱の中で大人しく控えめに生きていたバブル世代もいるだろうし、ゆとり世代の中にはハードワークとか飲み会好きも少なくないに違いない。

その世代に該当するからといって、例外なく全員にその特徴が現れるなどということはない。それは価値観においても外見においても同じだろう。ただ、同じ世代の人が同じ年齢の時期に同じ世の中の出来事や世相を体験しているのは事実である。だからといって、出来事や世相への反応の仕方は人それぞれなので、世代論はやはり厳密には成り立ちようがないと思う。

お金のはなし3

最近は家計簿をつけるようにしているのだが、これはお金について深く広く学ぶ一環である。

つけてみると色んなことが分かってきて面白く、また自分のお金の使い方について恥ずかしい思いをすることがある。というのは、どこでどんな無駄な出費をしているかが目に見えて分かり、それがあたかも、自分の「弱さ」が晒されているように感じられるから。

怖いのはお金ではなく人間だ、と山崎元が『お金とつきあう7つの原則』(ベストセラーズ、2010年)で書いているが、その「怖い」には、ついつい無駄な出費をしてしまうといった「弱さ」も含めて良いだろうと思う。

また、家計簿よりも以前から月ごとの収支の記録を継続している。家計簿と合わせることで、お金の動きが一日単位から月単位、年単位まで広く捉えることができる。

お金の動きを記録し続けて良いと思うのは、まず無駄な出費が減り、本当に欲しいものには惜しみなくお金を使えるようになったところだろうか。また、個人バランスシートを作り、数年先までのキャッシュフロー表も作ってみると、未来のことがある程度予測できて、生活の仕方やお金の使い方についての示唆が得られるようにも感じる。

見える化」という言葉は、ここ数年けっこう流行っているように感じるが、やはり見えないことほど恐ろしいことはなく、お金の動きもその例外ではない。見えるようになれば、恐怖心はなくなっていくのだろう。

小説から遠からず離れて

最近、ちょっとあることの勉強していて、小説の読書から離れている。そのせいか、ブログのネタが拾えずブログ記事執筆にちと難儀しているのだ。

記事を書くには、閃きでも何でもいいので何かしらのネタを獲得しなくてはならないが、本ブログの中心テーマの一つでもある小説を読んでいないためにそのテーマについてのネタが手に入らない。

その勉強していることをネタに書くこともできるし、実際に少々書いてはいるが、やはり小説や街のことに比べると知見が浅く恥ずかしい記事にならざるを得ないので、辛いところである。

さてしかし、小説の読書をしないでも小説に関する記事のネタを一つ拾うことができた。

それは、私の生活に当たり前のようにあった小説から、ちょっと離れてみたことへの感触である。私はもう十年以上、だいたい毎日、少なからず小説を読んできた。それがこのたび勉強のために離れてみて、やはり俺は小説中毒者なんだなという思いを改めて抱いている。

人間は本能的に?物語を欲する動物らしいか、やはり私自身も、長く親しんできた物語である小説を本能的に欲しているのではないかと思える。

とはいえ下らない作品の場合は読むとイライラしてしまうので、やはり優れたものを欲しているわけだが、小説を読んでいないと落ち着かず、張り合いがない。

勉強が一段落(これを「ひとだんらく」と読むのは間違いだよ)したら、読みでのあるやつをじっくり味わいたいもんだ。それを楽しみにして、まずは勉強である。

怖いのは人間

山登りが好きだった人から、山の中で一人でいる時に何に遭遇するのが最も怖いか、という話を聞いたことがある。その人は、天気が悪くなったり獣に遭ったりするのも怖いには怖いが、最も怖いのは人間に遭うことだ、と言った。それを聞いた私は、なるほどそうかと思った。それはちと性悪説に寄った考え方だと思うが、たしかに山の中で赤の他人に遭遇したら、何をされるかまったくわからない。まぁもちろん、困っている時なら助けてもらえたりするかも知れない。

人を信用しちゃいけない、というのはいつの時代でもどこでもよく言われることのように思う。私は性悪説にも性善説にも偏り過ぎてはいけないと考えていて、独立自尊、他人の世話にはなりたくないと強く思っているが、おごってくれたり親切にしてくれたりするのをことさら拒むのも、人間関係上では好ましくないと思っている。もちろん、人から親切されても単に喜んで負い目など感じない人もいる。

前置きが長くなったが、山崎元『お金とつきあう7つの原則』(ベストセラーズ、2010年)の冒頭には、お金が怖いとか言うのは正しくなく、怖いのは人間だ、ということが書いてある。

たしかにそうだ。お金というのは使い方を誤ると人生や生活が破綻するし、人を狂わせ、しばしば殺人など犯罪に走らせることもあるので取り扱いには注意しないといけない。けれども、それはやはりお金が怖いのではなく人間が怖いのである。お金は酒や色恋のように人間の理性を破壊し、正常な判断を鈍らせてしまい、時に暴走すらもさせてしまうのだ。

私は酒で失敗したことは多いが、お金で失敗したことはほぼない。というよりも、失敗するほどお金を使っていないし稼いでもいないし、他人に譲ったり譲られたりもしていない。お金について、スケールの小さい人間なのだ。失敗といえば、もう十年以上前、ある人にけっこうな額のお金を貸して返してもらえなかった。その人とは今では絶縁しているが、仲違いの原因は様々であるもののお金を返してもらえなかったことも一部含まれていた。もちろん悪いのは相手なので、私は泣き寝入りするしかなく、ここで私がおかしな行動を取っていたら「怖い」結末になっていたかも知れない。

お金は人間同士の交流や仕事の媒介になる。その点は酒や色恋と同じ役割を持つかも知れない。けれどもお金を通して交流する相手はやはり人間であり、あらゆる人間は自分の感情を完全にコントロールすることはできない。交流の過程で悪い感情がふくらんでしまうと、悪い事態もとうぜん起こるだろう。酒や色恋と同じである。

コペルニクス的転回

物事の見方が180度変わってしまうことを比喩的に「コペルニクス的転回」というが、ようするに前提がひっくり返るということだと思う。

勉強を続けていると、そういうことがたまにある。例えば、「資産」を持ちたいと思って自宅や自家用車を買ったが、お金に関する勉強をして、継続的にお金を抜き取っていくものは「負債」だと知ると、自宅や自家用車への認識は180度変わる(もちろん売却すれば金になるが二束三文になることもなくはない)。また、自分は「努力」を美徳だと思って会社での長時間労働を辞さず、休日も返上して働き続けてきたが、仕事とか労働に関する勉強をして、それは「忍耐」に過ぎないと知ると、自分の労働への認識は180度変わる(もちろん忍耐も美徳と言われるが努力に比べ得られるものは相対的に少ない)。

まあ上記はけっこう無茶な例えだが…。また、従来の前提と新たな前提のどちらが正しいかを決定するのは難しい。しかし、前提が変われが物事の見方が大きく変わってしまうのは確かである。また多くの人は、新たな前提を知って、自分はそれまで大きな誤解していたと思う。「目から鱗が落ちる」とはまさにそのことである。だから、物事の見方を大きく変えるような新たな前提は、多くの場合、従来の前提を凌駕していると言えるのではないかと思う。

新たな前提に到達するには勉強と経験が必要である。勉強と経験が、コペルニクス的転回をもたらすのではないか。