杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

俳優の自意識過剰

吉村公三郎が『映像の演出』(岩波新書、1979年)で俳優の自意識過剰について書いていて面白い。

俳優の自意識過剰とは、「演技をやりながら、いつも自分は今演技をやっている」という意識から離れられない状態、らしい。自身の感性や空想力が豊かでも、自意識過剰であるために演技が生きない俳優がいる、とのことである。

吉村は、俳優はある時期に急に巧くなると高峰秀子が言ったらしい、と書いていて、それはいきなり巧くなったのではなく、自意識過剰を払拭できたからに違いない、と書いている。

私は本書を映画とか演出とか演技の課題だけで捉えず、他分野の色んな事象に当てはめて考えて読んでいるのだが、この自意識過剰への指摘も、他の色んなことに言えるよなぁと感じる。

創作雑記18 構想

最近、長篇小説の構想を練っているのだが、いやぁとにかく構想を練るのは楽しい楽しい。昔は、構想を練っていると早く書き始めたくてイライラしていた。しかし今は小説の世界を構成する要素を作るのが、あたかも年表と地図の空白を埋めていくような感覚で、わくわくするのだ。

書き方はまったく無手勝流で、小説に関する思いついたことをどんどん書いていく。人物相関図を作る時もあれば、登場人物の所属する組織の組織図や年表などを作ることもある。主題がどのように展開するかの流れを書くこともあれば、組織などよりもっと広い背景世界について書くこともある。

主題展開の流れはストーリーの根幹となるが、長篇の場合には主題は一つでなくてもいいのではないか、と最近考えている。その場合、いくつかの小主題を拵えて、それらを包み込むような大主題を設けることになるんだろう。なんだか、小説が交響曲か何かに思えてくる。

相関図とか年表とか背景世界は、ストーリーがうまく流れ、主題がなめらかに展開するための道路整備のようなものだろうか。これはちゃんと出来ていればいるほど、作品にリアリティを与えると考えている。その点、私小説の場合はそれらがあらかじめほぼ完全に出来上がっていることになる。そういうこともあって、私小説は強いリアリティを持つのだろう。

島津保次郎のシナリオ作法

吉村公三郎の『映像の演出』(岩波新書、1979年)には、映画監督の島津保次郎のシナリオ作法に触れている箇所があり、面白い。

彼はシナリオ作法についてこう言っている。
「筋(ストーリー)は簡単なほどよい。主題(テーマ)をハッキリさせるためだ。そしてしっかり場面(シーン)を組み立て、科白のやりとりで文(あや)をつける。どんなシナリオかと人に聞かれたら、原稿紙なら一、二行、言葉でいうなら一息に筋が話せてしかも七割がた以上内容が説明できなくっちゃいけねえ。
 芝居は「食い違い」だ。たとえば恋愛を描くとすると、この垣ひとえがママならぬ。その垣ひとえを何にするかを考えりゃよい。」
 言葉遣いはいささか蕪雑ながら、ここには多年の実践から生れた正しい理論がある。

ストーリーは簡単なほど良い、という箇所には疑問があり、「明確なほど良い」と私は思う。とはいえ、それは小説についての考えだし、島津の言う「簡単」は「明確」という意味を含んでいるようにも思う。

「原稿紙なら一、二行」はまったくその通りで、それは小説にも言えると思う。簡単に言い表せるようなら小説ではない、みたいにかつての私は思っていたが、そういうのは作家の傲慢なんじゃないか最近は考えている。簡単には言い表せないような高尚で遠大なことを自分は考えている、みたいな姿勢では駄目だと思うのだ。

許したくないという病

片田球美『許せないという病』(扶桑社新書、2016年)を読んでいて、興味深い箇所があった。

私は小説を書く過程で、人間関係の中の怨恨とか憎悪とは、要するに相手を許せないということで、さらにそこに多様な文脈が入り込んでこじれてしまっているケースが少なくないと思った。他人を「許せない」という状態は、相手との争点を一つずつ整理して、ちゃんと感情を使って反応すればひとまずは乗り越えられるはずだが、それが難しいケースもあると思う。時間をかけて解決していかなくてはならない場合もあり、そういう人は「許せないという病」を生きていると言えるのではないかと考え、私が小説に描きたい対象だと思ったので、本書を手に取った。

読んでいて漠然とながら感じたのは、「許せない」というのは、相手から奪われたものを返せてもらえていない状態ではないかということだ。本書には、会社の上司や部下、友人、夫などの人間関係における「許せない」ケースが多数紹介されているが、つまり、相手とのやり取りの過程で、労力だとかお金だとか、感情だとか気持ちだとか、そういうものを掠め取られたまま返せてもらえないと感じると、当人は相手を許せなくなるのだと思う。踏みにじられた、というケースもあるだろう。

では、それは相手が「悪い」のかというと、必ずしもそうではなく、相手の方は悪意もなくごく普通に振る舞っていただけ、ということもあるわけで、そうなると相手は当人が「許せない」状態に苦しんでいることに気づきもせず、謝罪するはずもない。「悪い」のであれば、気持ちを込めて謝罪し、以降そういうことがないようにすればひとまずは済むのである。

もちろん、相手が明らかに悪くて、なおかつ相手が気にもしなければ謝罪もしない、というケースもあるだろう。その場合は「許せない」に正当性があり、当人は相手を許す必要などない。

一方、第2章「なぜ「許せない」のか?」に「傲慢だから許せない?」という見出しがあり、そこには、相手を許せないのは当人が傲慢だから、という場合があると書いてある。それは「許せない」のではなく「許したくない」のだ、とあり、面白いと思った。

つまり、相手の方にぜんぜん悪意がなく、単に当人が相手に奪われたと勘違いしているだけ、ということもあるだろう。これではほとんど必然的にこじれてしまうわけで、私の考えでは、「許せない」よりも「許したくない」の方が深刻である。

どうして「許したくない」のか、には当人の内部の文脈が関わっていて、ややもすると、生い立ちの中にその原因が潜んでいるケースもあるだろう。そうなると小説の出番のように思うが、「この主人公の辛さの原因は、その生い立ちのこんなエピソードにあったのでした」という説明になってしまってはいけないだろう。

「にんげん」を描く

『映像の演出』(岩波新書、1979)は、映画監督である著者の吉村公三郎が自らの見聞や体験を元に、映像の演出、というより映画づくり全般について語った面白い本である。やや古いと感じるところも多いが、実体験に基づいていて述べているところなどはやはり説得力があり、うんうんと頷かされる。

中で溝口健二の映画づくりについて触れた、こんな一節がある。

溝口健二監督は人情劇、恋愛劇を問わず、「劇」の背景になる歴史的、社会的事象をつとめてとりあげ、それをからませながら「劇」をはこぶことを、シナリオ・ライターの依田義賢氏によく要求したそうである。これは人情劇、恋愛劇が甘っちょろくならないため、厚みと重さを持たせる効果をねらったのだという。
 溝口監督にとって何より重要なことは「にんげん」を描くことであり、「にんげん」を生きいき描くには、一つの側面からとらえるのではなく、多くの側面からみてそれを描くべきであると考えていたらしい。溝口監督がシナリオ・ライターに求めた歴史性とか社会性とかはこのためであろう。

依田義賢というと溝口映画ではお馴染みの脚本家だが、溝口のこの姿勢にはとにかくうんうんと頷くばかりで、私は溝口映画が大好きだし、私が小説を書く上で堅持したい姿勢もこういうことなんだと納得と確信を得られて嬉しくなってくる。

馬鹿になるしか…

ある人が、会社を経営しているような人はよほどの天才か、あるいは馬鹿のどちらか、と言っていた。スティーブ・ジョブズも学生に対し「愚かであれ」と言い残したそうで、馬鹿みたいにがむしゃらになることが実業家には推奨されるのかも知れない。

そのこととどれくらい関連性があるのか分からないが、どうも最近、こう思うのである。すなわち、世に問いたいことがある、世に発信したいものがある、といった情熱を内部に秘め、企業などの枠組みからはみ出て活動しようとする人は、経済的にも精神的にも自立して生きていかなくてはならず、人生や生活のあらゆることを他人任せにせず自らの力でやっていかなくてはならないが、それでは目配り気配りするべき部分があまりに広く多くなるし、いつまで経っても安心に到達することがないため、ええいままよと楽観的で向こう見ずの馬鹿みたいにならざるを得ないのではないかと。

お金も人間関係も仕事も、将来の安定が保証されることは決してない。それは独立していようと勤め人だろうと同じであるはずだが、勤め人は勤め先に守られている部分もあり、そういうことになかなか気づきにくい(もちろん中には気づいている人もいる)。

一方、独立自尊の精神の持ち主は、いかに安定を目指したところでその実現が極めて困難であり、しかも究極には決して実現できないことを如実に感じている。そうなると、将来を心配したり下手に用心深くなったりすることが逆に意味がないことが分かり、結果としてあっけらかんとした能天気な態度に変わっていくのではないか。

どうもそんな気がする。

太田大八『だいちゃんとうみ』

福音館書店 母の友編集部『絵本作家のアトリエ1』(2012年)を読み、その中でインタビューを受けている太田大八という作家の『だいちゃんとうみ』(福音館書店、1979年)という作品が面白そうだったので、さっそく読んだ。

太田大八は1918年生まれ。父親がロシアのウラジオストクを拠点とする貿易商で、大阪・心斎橋にも支店を持っていた。生まれる時は母親が一時帰国し、大阪で誕生。その後ロシアに渡るが、二年後にロシア革命が起きて帰国する。父方の実家がある長崎に移り、海や山に囲まれた中で生活。その頃の「黄金のような日々」を描いたのが『だいちゃんとうみ』だった。『絵本作家のアトリエ』にそんなことが書いてあり、『だいちゃんとうみ』を読むべきだと私は思った。

『だいちゃんとうみ』は、田舎での一日の生活を淡々と描いたシンプルな内容。本文には「おおさきばな」という名称が出てくる。裏表紙の裏側には作品の舞台の地図が載っていて、「おおさきばな」は大村湾の大崎半島の先っぽであることが分かる。

釣りをしたり、海にもぐって貝を獲ったり、それを米と一緒に炊いて食べたり、木の上に作ったやぐらから海を眺めたり、夕方になったら家畜小屋から臭いが漂ってきたり…。

田舎ではごく当たり前の光景や遊びを書いているだけなのだが、ものすごく官能的である。「黄金の日々」と書いてある通り、まさしく官能が全開になる輝くような日々だったのが察せられる。

ちなみに『だいちゃんとうみ』には「こうちゃん」という「いとこ」が出てくるが、この人物は太田大八の父親の弟の息子で、一緒に罠を作って鳥を捕まえ、焼いて食べるなどの悪さをしたそうだ。そんな、『だいちゃんとうみ』には描かれていない交流も『絵本作家のアトリエ』に紹介されている。

太田大八はその後、十歳の時に一家で東京に戻る。1928年くらいのはずなので、『だいちゃんとうみ』を出すのはその五十年以上後のことだ。『だいちゃんとうみ』の官能の強さから、長崎での体験はよほど強烈だったんだろう。幼児期の体験はすごい。