杉本純のブログ

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許したくないという病

片田球美『許せないという病』(扶桑社新書、2016年)を読んでいて、興味深い箇所があった。

私は小説を書く過程で、人間関係の中の怨恨とか憎悪とは、要するに相手を許せないということで、さらにそこに多様な文脈が入り込んでこじれてしまっているケースが少なくないと思った。他人を「許せない」という状態は、相手との争点を一つずつ整理して、ちゃんと感情を使って反応すればひとまずは乗り越えられるはずだが、それが難しいケースもあると思う。時間をかけて解決していかなくてはならない場合もあり、そういう人は「許せないという病」を生きていると言えるのではないかと考え、私が小説に描きたい対象だと思ったので、本書を手に取った。

読んでいて漠然とながら感じたのは、「許せない」というのは、相手から奪われたものを返せてもらえていない状態ではないかということだ。本書には、会社の上司や部下、友人、夫などの人間関係における「許せない」ケースが多数紹介されているが、つまり、相手とのやり取りの過程で、労力だとかお金だとか、感情だとか気持ちだとか、そういうものを掠め取られたまま返せてもらえないと感じると、当人は相手を許せなくなるのだと思う。踏みにじられた、というケースもあるだろう。

では、それは相手が「悪い」のかというと、必ずしもそうではなく、相手の方は悪意もなくごく普通に振る舞っていただけ、ということもあるわけで、そうなると相手は当人が「許せない」状態に苦しんでいることに気づきもせず、謝罪するはずもない。「悪い」のであれば、気持ちを込めて謝罪し、以降そういうことがないようにすればひとまずは済むのである。

もちろん、相手が明らかに悪くて、なおかつ相手が気にもしなければ謝罪もしない、というケースもあるだろう。その場合は「許せない」に正当性があり、当人は相手を許す必要などない。

一方、第2章「なぜ「許せない」のか?」に「傲慢だから許せない?」という見出しがあり、そこには、相手を許せないのは当人が傲慢だから、という場合があると書いてある。それは「許せない」のではなく「許したくない」のだ、とあり、面白いと思った。

つまり、相手の方にぜんぜん悪意がなく、単に当人が相手に奪われたと勘違いしているだけ、ということもあるだろう。これではほとんど必然的にこじれてしまうわけで、私の考えでは、「許せない」よりも「許したくない」の方が深刻である。

どうして「許したくない」のか、には当人の内部の文脈が関わっていて、ややもすると、生い立ちの中にその原因が潜んでいるケースもあるだろう。そうなると小説の出番のように思うが、「この主人公の辛さの原因は、その生い立ちのこんなエピソードにあったのでした」という説明になってしまってはいけないだろう。