杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

美談と恨み節

以前、元デザイナーのある人から、自分は先輩デザイナーに鍛えられて成長した、今もその先輩を尊敬している、といった話をされた。その話を聞いて私は、ああこの人とその先輩は相性が良かったんだな、と思った。

先輩に鍛えられて成長した、といった思い出話の受け止め方は二通りある。鍛えられた当人が厳しい指導を肯定的に受け止め、乗り越えることができたのだとしたら、その体験は美談になる。逆に、あまりの厳しさに耐えられず、ギブアップあるいは逃亡などの結末になったら、その体験は当人にとって恨みのこもった最悪の思い出だろう。

クリエイターの世界にはこの類いの思い出話がごまんとある。もちろんクリエイター以外の世界にも数多ある。たいていは、美談として語られる。恨み節を吐く人は少ない。話したくないのだから当たり前だ。

私の場合、だいたいは恨み節になってしまう。なぜなら、私を「鍛えた」だの「面倒を見た」だの抜かした奴らは単に私を虐待していただけだったからだ。

美談の中には涙を誘う物語に仕立て上げられているものもなくはない。いじめのような苛烈な指導が、実は弟子を思う愛情ゆえの行為だった、といったものだ。けれどもそういう話を聞かされた後で私はいつも思う。その愛情ある師匠とやら、別の弟子にも同じように苛烈な指導をやって、その人からは恨まれているんじゃないかな?と。その人は別のところでその師匠への恨み節を口にしているんじゃないかな?と。

クリエイティブの指導を厳しくやるべきか、やらないべきか、分からないが、少なくともクリエイターの世界では「厳しくされないと成長できない」式の精神論が未だに残っているように思う。その思想は厳しい指導を肯定し、助長し、加速させる。私は厳しい指導を全否定するつもりはないが、それに肯定的な人を見ていると、どうもそこに嗜虐性が見えてしまう気がするのだ。それがまことに嫌である。

佐伯一麦と島田雅彦の共通点

もともと佐伯一麦関連の本として手に取った島田雅彦『君が異端だった頃』(集英社、2019年)だが、読み進めていくうち、年齢が近い佐伯と島田には色んな共通点があることに気づいた。

まず二人ともクラシックが好きである。『君が異端だった頃』にはブルックナーとかマーラーとかクラシック関連の名詞がばんばん出てくる。佐伯もまたクラシックをよく聴き、『読むクラシック』(集英社新書、2001年)という本を出しているほどだ。

次に、二人とも高校時代に埴谷雄高『死靈』を読んでいる。そして、埴谷と『死靈』に少なからず影響を受けている点でも共通する。島田はしばらくの間「首猛彦」を自らのペンネームの参考にし、佐伯は文芸部で出した同人誌を埴谷宅に届けた、という情報がある。

そして、佐伯も島田も十代で新聞配達のアルバイトをやっている。それは二人とも、それぞれ自分の私小説に書いているし、佐伯は随筆にも自分が元新聞少年であることを書いている。

二人は川崎市多摩区の稲田堤に住んだことがある。島田はそもそもそこが実家だった時期があったのだが、二人は一時期、地元の友達としてもよく飲みに行ったり、多摩川べりで遊んだりしている。

また二人は「海燕」でデビューした点も共通しているし、なぜ「海燕」だったかというと寺田博が編集長をしていたから、という点でも共通している。ではどうして寺田を当てにしたかというと、これは二人の私小説に書かれているのだが、佐伯は和田芳恵『暗い流れ』の担当編集者として寺田を敬っていたからで、島田は野田開作のアドバイスに従って寺田に辿り着いたからだ。島田本人は寺田を目当てにしていたわけではない。このことは島田の随筆「ハッタリと『悲愴』」(「新刊ニュース」編集部『本屋でぼくの本を見た』(1996年)所収)にも書かれている。

二人は三十年以上にわたり親交のある作家仲間だが、『君が異端だった頃』を読みながらざっと数えただけでこれだけの共通点があるのに驚かされる。細かく探せば、もっと見つかるかも知れない。

小説への取り組み方は一八〇度違うように思う。政治に対する態度は、まるで違うようにも思うし、似ているように見える部分がなくもない。ここら辺は、もっと細かく調べたいところ。

勉強と学問

最近、勉強と学問の違いって何かな、と考える機会があった。ある学習塾を訪ね、その授業の仕方も見せてもらったことがきっかけだ。学習塾は一般に、知識とか問題の解き方とかを受験の対策として子供に授ける。まさにそれをしている様子を見て、「これは勉強かも知れないが、学問じゃないんじゃないかな?」と思ったのだ。

以前このブログで、磯田道史先生が朝日新聞の「仕事力」で使った「雪だるまの芯」という言葉について書いたが、先生はそこで学校教育について「皆で同じスタンダード知識を脳内入力し、見事に入力できた人が『センター試験』で選ばれ『一流』大学に入れてもらえるゲームで、これは学問ではありません」と述べていた。このたび勉強と学問の違いについて考えてみて、ああ勉強というのは先生の言った「脳内入力」かなと思った。

もっとも先生はその後、「標準の基礎教育が重要なのは確か」とも言っていて、勉強=脳内入力を根本的に否定しているわけではないが、そういう基礎の上に立てる「学問」がその先の人生でとても大事だと言いたいんだろうと私は思った。

私はライフワークで文学や地域の研究をしているが、そこにはもう教科書などなく、従って暗記することもない。やれば誰かからポイントがもらえるわけでもないしボーナスが入るわけでもなく、動機はまったく自分の内部にしかない。「知りたい」「分かったことを成果として世に問いたい」というのが動機だ。そういう行為がきっと、学問なんだろうと思う。自ら疑問を抱き、事実を集めて新たな事実を導き出す、ということ。私はこれからも学問をやっていきたい。

和田芳恵「小説と事実」

『和田芳惠全集 第五巻』(河出書房新社、1979年)に収録されている「小説と事実」は、「長篇「暗い流れ」を書き終って」という副題がついている。「北海道新聞」1977年2月25日に発表された随筆で、『暗い流れ』執筆の思い出などが語られている。

「暗い流れ」のなかには、かなり、私の閲歴と周囲の人たちが描かれており、その中には実名で登場することもあるので、とかく、実際にあったと思われたりもした。
 登場する人たちは、その人たちを知っている側から、ほんとうだと思われたが、その場合は私の作りあげたものであった。ここが、フィクションというもののおもしろさであろう。

とある。

佐伯一麦講談社文芸文庫の『暗い流れ』の解説「私小説という概念」で「小説と事実」に触れ、上記引用箇所と同じ部分を引き、

作中でもっとも印象深いと思われる、主人公に性の手ほどきをするシモという女性についても、死んだ姉が晩年になってからした、父が子守に雇われていた娘に男の子をうませたという話が、和田の内部でふくれあがったものだと打ち明ける。しかし、たとえ事実をはなれていたとしても、読者は、シモが小説の中に息づいている生々しさを否定することはできないにちがいない。

と述べている。

私小説とはいえ小説なのだから、まったく事実そのままでなくてもいい。『暗い流れ』に関して、和田は「フィクション」という言葉を使っているが、現に佐伯は登場人物に「生々しさ」を感じているわけだ。

和田は、『暗い流れ』執筆に際してとった態度を次のように述べている。

「暗い流れ」は、とかく、美談になりそうな内容で、私は、どのようにして、この進行を止めようかと苦労した。そのためには主人公の吉平の恥部をさらけだすことであった。私は自分の卑小さに絶望しているものだから、日常生活では逆な生きかたをしている。これらをかなぐり捨てて、第三者が、どう思っても仕方がないことだと肚を決めた。

私小説を書く上での訓戒にしたいくらいだ。

文学研究は不幸?

和田芳恵『暗い流れ』 に面白い箇所がある。

 第一外国語学校に受験生の夏季講座があり、私は途中から受講することにした。元一高の教授だった岡田実麿が英語の訳解を教えていた。いわゆる紳士といった風格があり、堂堂とした恰幅だった。
 教室の椅子は、五、六人がいっしょに並んで掛け、机も、それにふさわしい長めのものだった。早いものから、前にすわるので、いろんな人と隣りあわせになった。
「君、『蒲団』という小説を読んだことがあるか」
 鉄縁の度の強い眼鏡をかけた青年が私に言った。白絣の単衣をきて、くたびれた袴をはいていた。
「読んだよ。田山花袋の小説だろ」
「よく知っていたな。あのなかに出てくる女弟子横山芳子のモデル岡田美知代の兄が、口髭を生やした口を動かして、英語を訳している岡田実麿なんだ。小説に深入りして、モデルの穿鑿などにうつつを抜かすようになると、僕のような万年受験生になるよ」
 私が、ひそかに考えたように、この青年は受験慣れした、落伍者の一人であった。

岡田実麿が岡田美知代の兄だというのはWikipediaにも載っている。「一高」とは今の東大で、岡田の前任教授は夏目漱石だったようだ。

それにしても、「モデルの穿鑿などにうつつを抜かすようになると、僕のような万年受験生になるよ」というのが、面白いというか何というか。。この登場人物にはモデルがいたのか。いずれにせよ、文学研究をやると人生を棒に振る、ということだろう。文学研究をやっている私はこの先どうなるんだろう。。。

瀬戸内寂聴と和田芳恵2

昨日のブログは、瀬戸内寂聴和田芳恵が対談し、和田が瀬戸内に対し「男に関して間違っていることがある」と言った、というエピソードを書いた。

この対談は何だろう、と思って調べてみたら、瀬戸内と和田は「海」1975年12月号で「老年のエロス」というテーマで対談していたことが分かった。その対談の思い出は、「エロスの対談」という題で『瀬戸内寂聴全集 拾九』(新潮社、2002年)に収められている。この「エロスの対談」は1978年10月に発表されたもので、最初はどこに出た文章なのか分からなかったが、調べてみたら『和田芳惠全集』の月報に寄せられた文章だったことが分かった。

ちなみに古河市の古河文学館の「和田芳惠展」の図録(1999年)に同じく「エロスの対談」という寂聴の作品が収録されているが、恐らく月報に寄せられたものの再掲だろう。

さて、和田が瀬戸内に言った、あなたは男に関して間違っている、という言葉は、恐らく「海」1975年12月号を読まなくては確認できないだろう。私は「エロスの対談」にそのエピソードが載っていないかどうか期待したが、載っていなかった。瀬戸内と和田の対談、大したことはなさそうなのだがどうも気になる。もっと調べてみたい。

「エロスの対談」によると、瀬戸内が和田に最後に会ったのは1975年で、その対談が「海」に載ったようだ。対談の時、和田は肺気腫を患っていて呼吸が苦しかったそうだ。和田は瀬戸内と話した二年後の1977年に死んだ。

瀬戸内寂聴と和田芳恵

瀬戸内寂聴山田詠美の対談『小説家の内緒話』(中公文庫、2005年)を読んだ。

面白かった。全四章の対談でどの章も面白いのだが、最後の第四章「場所の記憶」で、瀬戸内が和田芳恵との対談の思い出を話しているところがあり、とりわけ印象に残った。男と女や、孤独について語っているところ。

瀬戸内 作家の和田芳恵さんと対談した時に、「瀬戸内さんは、一つだけ男に関して間違っていることがある」って言われたの。私の小説の女はいつも物わかりよく、「どうぞ、どうぞ、お帰りなさい」って男を帰すけれど、男は引き止められたいんだ、と。そこが間違っているって。
山田 私、一応、一度は引き止めるんですよ。そうすると、向こうが一度は断るじゃないですか。それで、「そっか、残念ね」って言って追い出すんですよ。
瀬戸内 無理に引き止めないでしょ。そこでね、本当は引き止めるべきなんですって。そのほうが、男は嬉しいんだって。「いやあ、物わかりがいい」っていって、感謝しているのかと思ったら、そうじゃない。

私はこっちの方面の経験は浅いが…ほんの少しだけ、身に覚えがある。きっと多くの男は、和田の言う通り引き止めてもらいたいだろう。それでいて強がって、引き止めてもらいたくない顔をして帰っていく。

男というのはだいたい女々しいのだ。中には図太くて強いのもいるが、多くの男は弱くてうじうじしていて「男らしく」ない。だから虚勢を張って、自分を強く見せようとする。それにしても、瀬戸内の男の見方について、『暗い流れ』の作者である和田が間違っていると指摘するのに妙に納得してしまうのはなぜだろう。。

私の考えでは、男のこういう女々しさにも種類とか程度というものがあって、DV男とかモラハラ男というのは、女々しさの悪い部分が極端に肥大した奴だと思っている。また太宰治などは、自分と心中してくれるかどうかで女を試すようなところがあったらしく、DVやモラも良くないけれど太宰のようなのも吐き気がする。

瀬戸内も山田も、一緒に住んでいる男が毎晩のように酒を飲んで帰ってきた経験があるらしい。

それについて瀬戸内は、「夜、小説を書いている時は緊張しているから、空気が張り詰めてガラスみたいで、お酒の力でも借りて打ち破らないと、中へ入れないのね」と言っている。これは共感するところが大きく、とはいえ小説を書いていてガラスのようになっているのは私自身だ。小説を書く人と一緒に住む人は、自宅なのに神経を使う生活を強いられて気の毒である。

瀬戸内は続いて「鈍感な人だったら平気なんでしょうけれど、私や詠美さんが好きになる男は敏感だから、わかってしまうのね」と言っている。繊細で恋人思いのいい男じゃないか、と思った。