杉本純のブログ

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美談と恨み節

以前、元デザイナーのある人から、自分は先輩デザイナーに鍛えられて成長した、今もその先輩を尊敬している、といった話をされた。その話を聞いて私は、ああこの人とその先輩は相性が良かったんだな、と思った。

先輩に鍛えられて成長した、といった思い出話の受け止め方は二通りある。鍛えられた当人が厳しい指導を肯定的に受け止め、乗り越えることができたのだとしたら、その体験は美談になる。逆に、あまりの厳しさに耐えられず、ギブアップあるいは逃亡などの結末になったら、その体験は当人にとって恨みのこもった最悪の思い出だろう。

クリエイターの世界にはこの類いの思い出話がごまんとある。もちろんクリエイター以外の世界にも数多ある。たいていは、美談として語られる。恨み節を吐く人は少ない。話したくないのだから当たり前だ。

私の場合、だいたいは恨み節になってしまう。なぜなら、私を「鍛えた」だの「面倒を見た」だの抜かした奴らは単に私を虐待していただけだったからだ。

美談の中には涙を誘う物語に仕立て上げられているものもなくはない。いじめのような苛烈な指導が、実は弟子を思う愛情ゆえの行為だった、といったものだ。けれどもそういう話を聞かされた後で私はいつも思う。その愛情ある師匠とやら、別の弟子にも同じように苛烈な指導をやって、その人からは恨まれているんじゃないかな?と。その人は別のところでその師匠への恨み節を口にしているんじゃないかな?と。

クリエイティブの指導を厳しくやるべきか、やらないべきか、分からないが、少なくともクリエイターの世界では「厳しくされないと成長できない」式の精神論が未だに残っているように思う。その思想は厳しい指導を肯定し、助長し、加速させる。私は厳しい指導を全否定するつもりはないが、それに肯定的な人を見ていると、どうもそこに嗜虐性が見えてしまう気がするのだ。それがまことに嫌である。