杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「場所」と小説

瀬戸内寂聴山田詠美の対談『小説家の内緒話』(中公文庫、2005年)は毎回一つのテーマをめぐって二人が語り合う全四章の対談だが(とはいえ対話を通してテーマを深く追究しているわけではない)、最後の第四章は「場所の記憶」というもので、瀬戸内が『場所』で野間文芸賞を受賞したことから語り始められている。

瀬戸内の『場所』は、山田が瀬戸内に教えたアニー・エルノーというフランスの作家の同名の小説に触発されて題を付けたものであるらしい。瀬戸内が自らの生涯を、所縁のある「場所」を訪ねた上で再構築した私小説で、私は未読だがこんどぜひ読んでみたい。

対談では『場所』の創作裏話も少し披露されていて面白い。瀬戸内がある義理から巡礼に出掛け、行き先で気になった場所があったので一人で行ってみた。するとそこは昔の男が住んでいた家だったので、「おっ、これは書いてやろう」と思った。それでその貧しい長屋を眺めたら、記憶がどんどん蘇ってきたのだという。

最近、私も私小説を書いていて感じるのだが、小説というのは人間関係の変化を描くもので、直接的には人間の思考や行動を書くことになる。思考は頭や心の中で起きるだろうが、行動は必ず時間と空間を縫って繰り広げられる。だから、小説は物理的にはある限られた時間と空間の中で起きた出来事を書くことになるのだ(当たり前だが)。

何が言いたいかというと、小説のストーリーには必ず「場所」が出てくると言える。あるいは、小説は「場所」なしには決して成立しないと言える。ストーリーが始まるのも必ず何らかの「場所」だし、展開するポイントとなるのも「場所」である。そしてストーリーのポイントとなる以上、その「場所」には人物の意思や記憶が結びついているに違いない。

「場所」というのは、小説をつくる上で不可欠の要素と言えると思う。

新河岸川風土記2 浮間橋

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板橋区を横切る新河岸川について、調べたことや見聞きしたを綴り、新河岸川が支え、育む文明・文化を伝えていく「新河岸川風土記」。第二回となる今回は、隣の北区のJR埼京線北赤羽」駅に添って新河岸川に架かっている「浮間橋」について書きます。

「浮間橋」が架設されたのは1928年(昭和3年)。当初は木製の橋だったそうです。どうしてここに橋を架けることになったかというと、1910年(明治43年)に起きた荒川の洪水を機に、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新たな川(荒川放水路)を開削することになったものの、「浮間」という場所が荒川と新河岸川の間に挟まれる形になってしまい、交通手段が渡船しかなくなったためでした。

地域の人々は、近くに駐屯していた近衛師団の工兵隊に依頼し、ここに橋を架けてもらいました。依頼に際し計6千円を拠金したとのことですが、これは現在だとどれくらいの金額になるのでしょうか。。

ちなみに、近衛師団が駐屯していた場所はのちに「国立王子病院」の敷地となり、2004年(平成16年)には「東京北社会保険病院」が設立され、同病院は2014年(平成26年)に「東京北医療センター」へと名称変更しています。

浮間橋はその後、1934年(昭和9年)に鋼板鋼桁橋になり、さらに1940年(昭和15年)に鉄橋に架け替えられました。しかし、東北・上越新幹線埼京線の建設計画に伴って再度架け替えられることになったとのことです。今の浮間橋は四代目になるわけですね。

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橋の脇に、大小二つの碑が建っています。大きい方は、最初の木製橋が完成した記念として建てられたもの。漢文が彫られていますが、その内容は上記のような木製橋架橋の経緯のようです。そして、当時の地域の人々の子孫が「浮間橋記念碑保存会」を設立し、1985年(昭和60年)に碑を今の場所に移しました。その記念として建てられたのが、小さい方の碑です。

「私小説とカネ」

私小説研究会編『私小説ハンドブック』(勉誠出版、2014年)の山本芳明私小説とカネ」を読んだ。タイトルからして、私小説の中に書かれてきた作家と金の問題について研究したものかと思ったが、私小説というジャンルの勢力が国の経済事情や出版市場の浮き沈みに影響されている、という内容だった。

 私小説は貧乏生活や小説がかけない悩みなどを描くことが多いので、ジャンルも作家も経済的な動向から超越していたと思われがちである。

と冒頭に書かれている。私小説=貧乏、というイメージはたしかに私小説に対して抱かれがちかも知れない。葛西善蔵川崎長太郎などの作品がそういうイメージを助長するし、西村賢太も貧乏生活を描いている。しかし山本は、文壇が経済的に隆盛すると作家が仕事が増え、ネタの枯渇に陥ったために身辺雑記風の作品(私小説)を量産するようになった、と他の論者の言葉を引用しつつ述べている。

ここでは私小説は藝術性の低い小説と位置づけられているようだ。恐らくエンタメ小説も、好景気で作家の仕事が増えるのに伴って駄作の数も相対的に増すんじゃないかと思った。

物書きと孤独

瀬戸内寂聴山田詠美の対談『小説家の内緒話』(中公文庫、2005年)で、外国人の夫を持つ山田詠美がこんなことを言っている。作家である自分に対し、家の中で家族が何かと話し掛けてくる、という話。

山田 孤独がいいっていう感じは、分からないみたい。でも、それは日本人でも一緒なんですけどね。作家が絶対に一人にならなくちゃいけない時間があるっていうこと、分からない人が多いから。うちの両親でも、一人で部屋にいると、必ず入ってきて喋るし。

たしか立花隆は、書いている間は部屋の外を完全にシャットアウトしたい、と言っていた。物書きは文章を書いている間、頭の中で言葉が文章になっているので、誰であれ話し掛けられるのを苦痛に感じる。他人からすると、物書き本人に話し掛けるのは親しい相手だから当然のことで、悪いとも何とも思っていない。

物書きとしては、孤独で作業をしているのは楽ではなく、孤独を紛らわしたい時間もあるし、話し掛けられることそのものは嫌ではないと思う。けれども、今まさに文章が頭の中でできて、指を伝って文字として書かれている状態で話し掛けられてしまうと、その流れをいったん止めなくてはならなくなるので、苦痛である。

これは物書きが自宅で仕事をするから起きる現象だと思う。緊張している最中にむりやり弛緩させられるのが苦痛なのだ。例えば会社の営業マンが、得意先で大きな商談を取ろうとプレゼンテーションしている時に、いきなり家族や子供が出てきて話し掛けられたらこれはたまらん。物書きが書いている最中に話し掛けられるのは、つまりそういうことなのだ。

教養のあるなし

「ギフテッド」という、先天的に平均よりも高い知能を持っている人がいて、その人は平均的な人びとに合わせて生活したり行動したりすることができない、というかとても苦しいのだそうだ。

ギフテッドの苦しさは知能の高さ・低さに起因するが、私は教養についても同様に考えていて、「ある人」は「ない人」の中にいるとかなり息苦しい思いをしてしまうのではないかと思っている。つまり、自分と環境の間に著しい知的な差異があると自分が苦しくなってしまうというのは、後天的にでもあり得ることだと思うのだ。

教養のある人は人生や生活の密度を高め、充実させて生きることができる。また、物の道理がよく分かっているので、判断も行動もおおむね合理的で早い。逆に教養の低い人は思想も生活もスカスカで、ただその日その日を漫然と生きている。教養がある人は毎日を緊張しながら高速で生きているので、漫然と生きている閑人と一緒にいるとストレスが溜まってしまう。それは当然だろうと思う。

仕事のできる人とできない人、本気で独立しようと思っている人とぶらさがり型のサラリーマンなどでも同じで、能力や意識の差が大きい場合、少数派はその環境に身を置くことがストレスになってしまう。

佐伯一麦『ミチノオク』第一回 西馬音内

「新潮」11月号から佐伯一麦の『ミチノオク』が始まった。目次には「待望の連作短篇、始動!」と紹介されている。

連載第一回は「西馬音内」という題で、これは「にしもない」と読む。秋田県雄勝郡羽後町の大字である。内容は、主人公が、キリスト教系の雑誌の企画で対談した「T医師」に教えられた西馬音内の盆踊りを現地に見に行く、というもの。「ぼく」という一人称で書かれているが、これは佐伯の小説では珍しいと思う。

「T医師」との対談は東日本大震災に関わるもので、死者とか魂について、主に医師の方がよく語った。盆踊りも霊魂とか鎮魂などに関わるだろうから、つまりこれが小説の主題なのだろう。

もっともこの作品、主人公の独白と回想と情景描写が延々と続いていて、ほとんど随筆か紀行文ではないかと思われるほどである。小説の軸となるほどの人間関係が描かれているとはいえず、「ぼく」がひたすら亡くなった親族や知人に思いを馳せている。

平板な風景や行動の中に回想が入り込んでくるのは、『渡良瀬』や『鉄塔家族』などの手法と似ていると言える。佐伯文学を読み解く鍵の一つは、ストーリーに寄り添うように展開する主人公の「過去の体験」であり、これが表面的には平和な生活の中にフラッシュバックのように飛び込んできて、日常生活の奥深くに潜んでいる情念のようなものを浮かび上がらせる。この書き方は実は「木を接ぐ」などでも使われていたが(この頃は「平和な生活」ではなかった)、『渡良瀬』あたりになるとだいぶ情念の強度が落ちてきて、今作もかなり微妙である。

さて羽後町は秋田県の南部にあり、山形県に近いところにある。小説には「湯沢」という地名も出てきて、私は一瞬「新潟か?」と思ったが、羽後町の隣りに湯沢市という市があり、「ぼく」はその市内のホテルに宿泊する。

西馬音内の盆踊りは、作中に「国の重要無形文化財に指定されている」とあるが、実際にかなり有名な盆踊りのようだ。小説では小雨が降っていて、そのため盆踊りは体育館での開催となる。「国道に面した総合体育館へぼくは向かった」とあり、盆踊りが終わった後、外へ出た「ぼく」は「隣接している道の駅の駐車場から、予約しておいたタクシーに乗った」とある。地図で調べてみたら、実際に羽後町の総合体育館は道の駅に隣接しているようなのが分かった。

後半は室内で行われる盆踊りの濃い描写が繰り広げられる。「ぼく」は湯沢で一泊した後、信州での仕事が控えているようなので、第二回は信州が舞台になるのだろうか。

佐伯一麦の連載『ミチノオク』、リアルタイムで読んでいこうと思う。

「苦しみのアブラ汗」

司馬遼太郎『ビジネスエリートの新論語』(文春新書、2016年)の「あるサラリーマン記者」の冒頭に胸を打たれた。

 私は、新聞記者(産業経済新聞社)である。職歴はほぼ十年。その間に、社を三つ変り取材の狩場を六つばかり遍歴した。
 むろん最初の数年間は、いつかは居ながらにして天下の帰趨を断じうる「大記者」になってやろうと、夢中ですごした。まったく青春をザラ紙の中で磨り減らした観さえあった。しかし、コト、ココロザシとちがって、駈出し時代の何年かはアプレ記者と蔑称され、やや長じたこんにち、事もあろうにサラリーマン記者(!)とさげすまれるにいたっている。

「まったく青春をザラ紙の中で磨り減らした観」…生意気ながら、私も十年以上ライターを続けてきて、「まったく二十代から三十代の溢れんばかりのエネルギーをキーボードに叩きつけて消耗した観」がある。かつては、藝術家になりたいと思っていたのだ。

「あるサラリーマン記者」は、復員した司馬が同じく復員学生の「O」と入社した二つの新聞社での騒動の経緯を書いている。記者ながら商才のあるOの行動の仕方が面白い。

司馬とOが勤めていた新聞社はツブれるが、そういう時、勤め先をなくした記者を他の新聞社が拾い上げる「美習」が、戦後の一時期の新聞界にはあったようだ。しかしその後、新聞社は新卒採用した社員を社の組織と体質に合うよう規格化するようになった、実力があっても秩序の良い部品になれない者は無用の存在だと、司馬は述べている。

今、私は令和をライターとして生きているが、どうも司馬が書いたような業界の雰囲気が、ぜんぜん別時代のこととは思えない。

最後に司馬はこう述べている。

時代は、新聞記者に対して良き意味でのサラリーマン記者たるよう要請している。野武士記者あがりの私なども、昭和二十三年春現在の社に入って以来、記者修業よりもむしろその点にアタマを痛めることが多かった。しかし、スジメ卑しき野武士あがりの悲しさ、どうも無意味な叛骨がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとは一体何であろうかと考えることが多くなった。その苦しみのアブラ汗が本書であるといえばいえるのである。

「苦しみのアブラ汗」。う~む、ぐッとくるなぁ。作品というのは押し並べて「苦しみのアブラ汗」なんだろうな。

ちなみにこのブログも、私の「アブラ汗」そのものだ。