杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯一麦と酒

キノブックス『酒呑みに与ふる書』(2019年)は、古今東西の物書きの酒に関する短い書き物をまとめたもの。恐らく酒を飲むことを礼讃するのを主眼としているのだろうが、「はじめに」も「あとがき」も解説もなく、編集者の意図が分からない変な本である。こんなのいったい誰が買って読むんだろうと思うほどで、とはいえこの手の本は世の中に割に多い気がする。

さてこの本に佐伯一麦『とりどりの円を描く』(日本経済新聞社、2014年)所収の「こんなにうまい酒は無い」が掲載されている。内容は、自身の酒に関するエピソードではなく、内田百閒が『東京焼盡』で酒に言及している箇所の紹介である。

佐伯の私小説には主人公がクラシックを聴きながら焼酎を飲む場面や、焼き鳥屋や居酒屋で店にいる人と会話しながらビールを飲む場面が数多く出てくる。また佐伯自身の、島田雅彦と稲田堤の「ふなや」で酒を飲み交わしたエピソードなどはあまり有名ではないはずだし、文壇の先輩たちと飲んだことも数多あるはずで、そういう話を紹介してくれる方がこちらとしては面白いのだが。。

ちなみに本書には島田雅彦の「アルコール依存」(『快楽急行』(朝日新聞社、2005年)所収)も載っている。『ルバイヤート』のオマル・ハイヤームアルコール依存症だったに違いないとした上で、ハイヤームの心境に共感できるようになったら気をつけなくては…と述べたもの。

ざっと読んで、もっといい原稿が他にあっただろうと思わざるを得ない。

世界を構築する

今、新作の小説に取り組んでいるのだが、背景世界を作り込むことがやたら楽しく、本文執筆よりも夢中になっているかも知れない。

構想ばかり固めて実作を進めないのは本末転倒かも知れないが、元はといえば、本文を書いていて躓いてしまい、先を書き進められないことが多かったので、まずは「足場を固めよう」と思い着手したのである。

シナリオを学んでいた時期、登場人物の来歴やら性格やら癖やら異性の好みなどまで細かく作ると良い、と何かの本に書いてあったか誰かに教わったかしたのでやってみたが、ぜんぜん面白くもないし実際のシナリオに反映されない部分が多かったので抛り出してしまったことが何度もある。しかし現在、そのことにかなり熱を入れて取り組むようになったのだから不思議なものだ。

思うに、背景世界は滅多やたらに作り込めばいいというものではない。まず、主題やジャンルやストーリーの大まかな流れなどが決められ、次いで細部を検討していく。執筆はそのさなかに始められるか、十分に細部が決まってから着手されるか、人によってさまざまだろうけれども、すべての細部を完璧に仕上げるのは不可能だろうと思う。

そういうこともあって、実際の執筆の最中、話の流れが予め決めていた大まかな枠組みからはみ出したり、予定の方向とは違う方へ進んでしまったりする。作品の背景世界を作り込んでおくというのは、おそらくそうした事態を切り抜けるのにいくらか役に立つのではないだろうか。

私が作っている背景世界は、主人公を中心として、人物同士、あるいは人物と環境の「関係」である。AはBをどう評価しているのか、その逆はどうか。Aはどうしたいと思っていて、それに対しCはどう関わってくるのか、逆はどうなのか。また、Aが住んでいる街は現在どういう状態にあるのか、Aにとって街はどう映っていて、逆に街にとってAはどういう位置づけになるのか。などなど。

その関係の線の中に、コンフリクト(葛藤)がある。それがストーリーを展開させるポイントになると思う。

読書と蔵書

先日、部屋の模様替えをした。

高さ180㎝近い書棚を三つ、部屋の中で移動させ、机の位置も変えた。書棚はいずれも本がぎっしり詰まっていたので、それらをいったん全て出してから動かした。

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畳の上に並べられ積み上げられた本を眺めて、ふと思った。恐らく、この中でこれから先ずっと、死ぬまで開くことなく置いておくだけの本は少なくないだろう、と。そして、そういう本は一段落したら売るなり譲るなり捨てるなりして処分しよう、と。

物書きとして、いつでも手元にあって欲しい本は当然ある。フィクションだろうとノンフィクションだろうと、書き物をする上で使う、いわば資料である。それは決して売りたくないし捨てたくもない。

書き物に使う資料は、年表や地図など基本的なものから、自分が関心を持つ特定の事物を扱ったノンフィクション・フィクションの作品まで様々である。これは、もう自分は二度とその事物について書き物をすることはない、その周辺についても関心がなくなった、という状態になれば不要になるだろうけれど、そういうことはあまりないのではないか。

一方、いっときの好奇心だけで買った本は蔵書しておく必要はない。そういう本は、小説やエッセイや評論といった分野に多いように思う。あるいは、その時期に話題になっていて、図書館で順番待ちして借りるのも面倒くさいから買った本。それらはたいてい一読すれば終わりで、二度と読むことはないので、処分してしまって構わない。

読書と蔵書は違う。滅多に読まない本でもあるとき急に必要になる本(資料)は、蔵書しておく必要がある。読みたくて買い、読んで面白い本でも、長きにわたって必要でないなら蔵書しておく必要はない。

名作絵本『シナの五にんきょうだい』

クレール・H・ビショップ『シナの五にんきょうだい』(瑞雲舎、1995年)は、子供も好きでときどき読んでいる。

絵はクルト・ヴィーゼ、日本語訳は川本三郎である。以前は石井桃子が訳したこともあるようだが、そちらは読んでいない。

とにかく内容がすばらしい。無実の罪で死刑になった兄を救うため、四人の弟たちが特殊能力を使ってあらゆる苛酷な死刑を生き延びて、ついに無罪を勝ち取るという痛快な話である。

私は以前から、スタジオジブリあたりに、こういう単純で絵になるストーリーをアニメ化してもらいたいと思っている。ジブリが子供向けにアニメを作るなら、こういう、内容が良くて、しかも絵になるストーリーはうってつけだろうと思うのだ。

私の知る限り、この本は保育園などで読み聞かせされることは少ないようだ。多分、「シナ」がアウトなのだろう。また、五人の兄弟がそれぞれ超能力を持っているというのが、中国人=得体の知れない力を持った人、などという西洋人の勝手なイメージによるもの、ということでよろしくないのかも知れない。

しかし、兄弟で助け合って、母親と一緒に幸せに暮らす、という内容は良いと思う。私は名作だと思っている。

努力したもん勝ち

いつか美輪明宏さんが、「人生はやったもん勝ち」と言っていた。そして、その後に「努力したもん勝ちなのよ」と付け加えていた。

「やったもん勝ち」などというと、特に考えがなくてもとにかくすばやく動いた奴が得をするという、どこか投機的な行為を肯定した言葉に聞こえるが、「努力したもん勝ち」を加えると、何だか納得できる。

やりたいことがあるなら実現するために努力をするべきだ。努力をする・しないは本人が選ぶことができるが、時間は決して取り戻せないので、やりたいことがあるなら迷いなく努力することを選ぶべき。後で悔いても遅い。

私は映画学校の時代にしばしば同級生から遊びに誘われたが、ほぼ例外なく断り続け、やがて杉本=誘っても来ないつまらない奴、という印象が固定していったように思う。当時の私は藝術家たらんとかなり鯱張っていて、学んでいる最中なのに遊ぶなど論外だ、みたいに考えていた。

これについては、ちょっと意識過剰で頑な過ぎた、もっと心に隙間風を吹かせても良かったと思っている。しかし、だからといって当時の私は、そのとき努力しなくては気が済まなかったからそうしたので、そんなに後悔はしていない。逆に、あのとき遊んでいた奴はけっきょく今では映画の道からも離れて何をしているか分からないので、物書きの方へ転じたとはいえ私の方が筋の通った生き方をしてきたんだという自負もある。

生意気だが、「努力したもん勝ち」というのは決して「勝ち」ではない。「勝ち」はあくまで結果であり、努力しようがするまいが過程は結果を約束しない。

考えようによっては、人生は一度しかないので若い時期に遊んだ方が得とも言える。けれども、一度しかないから努力する方が良いという理屈もまた成り立つだろう。

努力は孤独である。努力は本来、誰かに言われてするものではないし、努力している間に他人は遊んでいる。私は上記の経験から、あまりに意識的になってしまうのも考えものだと思うが、孤独に耐えて努力し続けることを大切にしたい。そしていつか「人生は努力したもん勝ち」と言う。

かさこさんの恩

「好きを仕事にする大人塾かさこ塾塾長 写真家&ブロガー メッセージソングライター」のかさこさんの無料冊子「他人軸から自分軸へ転換する 本当の自分が見つかる自分探しガイドブック」が届いた。

思い通りの人生を生きられずモヤモヤしている人。どうしてモヤモヤするかというと、自分軸ではなく他人軸で生きているから。周囲の人や職場などの環境に動かされてしまっているから、自分の人生を生きることができない。自分の自由な発想や行動を阻んでいるのは何なのか、自分は本当は何がしたいのか。それを知り、自分軸を取り戻し、一歩を踏み出し、活動を世界に発信することで、自分の世界が拡大していく。人生は翼を持ったように自由に羽ばたき、かけがえのないすばらしいものになっていく。…そんな夢のような人生行路を案内してくれる冊子だ。

しかし、それは夢ではない。現実になる。かさこさん自身が、2000年からブログを開始して毎日更新し続け、いくつもの夢を叶えてきた。

物書きワナビの私は、まだ目標を実現できていない。目標への道を阻む現実の壁の高さと厚さに憔悴しかけることも多いが、かさこさんのブログやこの冊子には、俺にもいつか必ずできる、だから頑張ろうと思わせてくれる力がある。

実際、「自意識過剰」、「転職ジプシー(転職すれば天職に出会えると妄想する人)」、「コンプレックス」、「親の呪縛」などなど、かさこさんのブログや冊子には人生の広がりを阻害する要因がいくつも挙げられていて、(白状すると)色んな意味でグサッと突き刺さった。それは逆に言えば、自分の素直な気持ちに気づかせてくれるものだった。

私がかさこさんを知ったのは、かさこさんの取引先の一つが私の勤め先で、会社に届けられた「かさこマガジン」を手に取ったのがきっかけ。今回届いた冊子は、「かさこマガジン」の9冊目だ。

正直に言うと、マガジンに書かれていたことは最初は受け入れられなかった。夢みたいなことを言ってる変な奴がいるなぁ、という程度の認識。しかし、転職や独立を妄想して悩んでいた時にふと思い出して再び読み、眼を開かれた。その場から「逃避」することなく、一つずつ現実を変えていける方法が、細かく具体的に書かれていたから。またブログも読ませてもらい、私がしようとしていたのは言うなれば現実逃避で、勤め先があって定収入があることがいかにすばらしいかという、忘れかけていた現実を再認識させてくれた。

私はこのブログを必ず一日一記事アップするようにしていて、ここにはかさこさんの影響が少なからずある。そして、一人の物書きとして仕事をしていくのは楽ではないが、それを展開していく方法をあれこれ考え、少しずつだが取り組んでいる。

やりたいことができない・やらない理由はいくらでもある。しかし人生は一回きりなんだからやらないのは損。それは分かっている。けれども難しい。現実は甘くはなく、あらゆる手を使って自由を奪ってくる。だが、そんな複雑怪奇な現実を乗り越えてやりたいことを実現する方法は、ある。

この冊子は、やりたいことがあるのにそれが十分にできずモヤモヤしている全ての人が読むべき一冊。しかも無料。オススメです。

ちなみにこの冊子にはかさこさんの体のサイズや血液型などが載っているが、私とほとんど同じだったので驚いた。

かさこさんのブログ

かさこ塾ホームページ

「今日はどんな話が聞けるんだろう」

繁忙期には毎日のように取材に出掛けるが、すると書くべき原稿が溜まってイライラしてきて、一つ一つのインタビューをいい加減にやり過ごしてしまいがちになる。

そういうやっつけ仕事みたいなのは良くない。私は自分が決してそういうことをしないよう、取材に出掛ける時、「今日はどんな話が聞けるんだろう」と思って取材相手のことを想像するようにしている。

取材は一期一会。その日、その時に初めて会って話を聞く相手は、その後死ぬまで会わない人が大半。だから一回一回の取材の時間を大切にして、決していい加減にやり過ごさないようにする。

仕事が溜まると往々にして一個一個が拙速になってしまいがちだ。私はどちらかというと「拙速を尊ぶ」タイプだが、だからといって拙劣であるのを良しとするわけではない。

仕事を早く終わらせてしまいたい、というのは自分の都合である。しかし取材相手は、滅多にない機会だからきちんと回答しようと準備してきていることが少なくなく、そういう人を相手にやっつけ仕事をするのは失礼である。そうならないために、「今日はどんな話が聞けるんだろう」と、その日の出会いの価値を少しでも高めるおまじないを唱えるようにしている。

するとやはり、その取材は面白くなる。「今日はどんな話が聞けるんだろう」と思うことで、その相手に会うのがワクワクしてくるし、「こんなことも聞いてみたいな」と、一つの取材に独自の視点を盛り込めるようにもなる。

取材に限らず、仕事とは本来そういう姿勢で臨むものではないか。そんな風に思っている。