杉本純のブログ

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脚本を書く映画監督になりたかった。

 特別お題「今だから話せること」に参加します。

 ここでいう「今だから話せる」は、「過去には話せなかった(明かせなかった)」ではありません。時が経ち、人間的にあるていど成熟したので、山の上の方へ行けば登ってきた山道を眺められるように、当時を振り返ることができるようになった、ということです。その山道を登っていた時は自分を客観視できなかったので、今のように話すことはできなかったと思います。

 さて、私の「今だから話せること」は、脚本を書く映画監督になりたかった、です。
 昭和生まれの私は少年期から映画をよく観ていて、高校を出る頃には、映画監督になりたいと思うようになっていました。母にはよく映画館に連れていってもらい、父とは宮崎駿のアニメを映画館やテレビで観ました。私は次第に一人で映画館に行くようになり、近所のシネコンではアメリカ映画や香港映画を観て、都会のミニシアターでしか上映されないマニアックな作品も観るようになりました。そして、観賞する側から作る側になりたいと思うようになった。よくある話です。
 宮崎アニメは何度も観ましたが、宮崎駿は監督でありながら脚本も書く人です。また、映画に熱中するようになってから、私は黒澤明の作品をほぼ全て観ました。黒澤明もまた、脚本を書く映画監督でした。私の「脚本を書く映画監督になりたい」という気持ちには、宮崎駿黒澤明の影響が少なからずあったと思います。
 愛知県の私立高校の普通科に通っていた私は、大阪芸術大学で映画を学べると知り、受験しましたが、駄目でした。推薦入試が不合格で、一般入試には苦手だった英語が含まれていたので、受かるはずがないと思って断念したのです。
 別の大学に入った私は、それでも映画への夢を捨てきれず、卒業後に川崎市日本映画学校に行くことにしました。試験はたしか作文と面接だけで、面接では、昨年亡くなった映画評論家の佐藤忠男先生と話しました。その頃の私はビリー・ワイルダーヒッチコックの映画なども観ていて、佐藤先生に向かって「映画はモノクロ時代の方が優れていると思います」などとイタい発言をしていました。
 ところが、私は合格し、大学卒業後、二十二歳にして専門学校に入学することになったのです。
 日本映画学校では、一年は佐藤武光先生、二年は新城卓先生のゼミで学び、三年は武重邦夫先生にお世話になりました。日本映画に詳しい人ならわかるでしょう。三人の先生はいずれも映画監督・今村昌平の弟子であり、その助監督を務めたことがある人です。武光先生は『女衒 ZEGEN』(一九八七年)、新城先生は『復讐するは我にあり』(一九七九年)、武重先生は『楢山節考』(一九八三年)で助監督を務めました。こんなことは自慢にもならないのですが、私は一応、今村昌平の孫弟子ということになります。

 当時は映画に没頭していました。日に数本、古典作品のビデオを観て、映画館にも新作を観に行き、ゼミの制作実習では寝る時間を削って学生たちと映画づくりをしました。けれども、当時を思い返して、あの頃は青春だったなぁ、などと懐かしくなることはありません。その思い出が、ちっとも甘くないからです。
 当時の私は映画に没頭していた…いや、もっと正確にいうと、映画の夢を成就させようと必死でした。その必死さは、悲しさすら帯びていました。脚本を書く映画監督になることは私にとって、アイデンティティ確立のためにどうしても欠かせないことだった。当時を振り返り、そんなふうに思います。
 「ワナビ」という言葉があります。「(何者かに)私はなりたい」という意味の英語が元になった言葉で、往々にして、侮蔑的なニュアンスで使われます。当時の私は、脚本を書く映画監督になりたいと願い、必死になって映画を観まくり、脚本を書きまくるワナビでした。アルバイトも少しはしましたが、奨学金をもらい、一日のほとんどの時間を勉強と創作に捧げていました。映画漬けの生活は、面白くて仕方なくて夢中になっていたというより、それくらいやらないと駄目だという思い込みからしがみ付いているような状態だった、という方が正しいと思います。
 また、それほど必死になってやっていることを内心で誇らしく思うところもあり、学生らしく遊んでいる周囲の人を見ては、心の中で馬鹿にしていました。古い映画をたくさん観ていたし、映画に関連する本も読んでそれなりの知識があったので、同級生のことは見下していました。
 そんな私の青春の夢は、いっこうに進展しませんでした。
 制作実習は、学生たちが脚本を提出し、皆で回し読みをして、映画化したいと思う作品に投票し、多くの票を集めた脚本を書いた人が監督を務めるシステムで進められました。しかし、私の脚本が選ばれることはなく、あろうことか、ひそかに馬鹿にしていた別の学生の脚本が選ばれました。
 努力は成果に結びつかず、実力を示すこともできない。いや、そもそも実力などなかったのですが、その現実を受け入れるのがあまりに辛く、頭の中で「今回は選ばれなかったけど本当は自分の脚本の方が優れている理由」を考え、無理矢理に自分を安心させていたと思います。
 映画学校に三年通い、ついに私は一度も監督を務めることなく学生生活を終えました。
 誰にも負けないくらい努力したんだぞ、という思いはありながら、一度も成果を出せず全てが終わってしまった悔しさ。俺は決して監督を務めた学生に劣っていない、とは思うものの、それを口に出せるはずもなく、黙るしかない。この苛立ち…
 私の感覚では、学生の半分くらいは学校を出た後、映像制作会社に就職したり、フリーの助監督になったりして、映画や映像に関連した仕事に就きました。しかし私はそういう道には進む気がせず、当時アルバイトをしていた地元の小さな会社に入りました。
 どうして映画の道に進まなかったのかというと、私はそもそも、映画という、集団で創る総合藝術の制作に向いていない、という思いがあったからです。数度にわたる制作実習を通して、自分はコミュニケーションが得意ではないこと、一方で自分の思い通りにならないのが我慢できないという欠点があることも自覚していました。世の映画監督にはそういう人もいるでしょうけれど、私にはそういう人と同等の実力はなかったのです。
 映画監督になることは、私にとって「アイデンティティ確立のためにどうしても欠かせないことだった」と書きました。言い換えると、映画は私にとって、アイデンティティ確立のための道具だったのかもしれません。映画は今でも観ますが、以前ほどの情熱はありません。どうしてでしょう。それは私が映画の「ワナビ」だったことと関係しているように思います。ワナビは、その「自分がなりたいもの」が心から好きなわけではなく、自我の確立のために、「とりあえず好きだということにする」という面があるように思います。
 学生映画でデビューして、うまいこと映画のプロになれれば何の問題もなかったのでしょう。しかし私には、その実力はなかった。卒業後も映画を「好きだということにして」、アイデンティティ確立のチャンスを追い続ける道を選ぶことはできませんでした。これ以上、叶うかどうかわからない夢に振り回され、辛い修業の日々を送るのはよくない。私は漠然とそんなふうに悟り、映画を諦め、地元の会社に入ることにしました。夢に挫折し、青春を完全燃焼できなかった悔しさでくすぶり続け、不本意な会社勤めを続けたのです。

 青春の不完全燃焼の憤懣は、今も完全に静まっていません。しかし、青年期を過ぎて長い時間が経ち、ようやく「今だから話せること」になったと感じます。
 「脚本を書く映画監督」への思いは、「書く」だけが引き継がれました。私は「物書き」つまり作家になりたいという思うようになり、その後もずっと、今も書き続けています。はてなブログを更新し、小説を書き、文学フリマで売ったこともあります。もちろん、プロになりたい。その意味では、学校は卒業しましたが、ワナビを卒業したわけではないといえます。自分からは、簡単には逃げられないのです。書きたいと思う人が書き、発信できる場があるのはありがたいことです。私はこれからも書き続け、はてなブログ文学フリマで発信していきたいと思っています。