杉本純のブログ

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佐藤忠男先生の思い出2

上映後の対話

映画史の授業で観た(たしか『瀧の白糸』だったと思いますが)サイレント映画について、どうして芝居があんなにオーバーアクションなのか、授業の後に職員室のソファで休憩していた佐藤先生に聞きに行きました。佐藤先生は、あれは歌舞伎の影響じゃないかとかなんとか、答えてくれたと記憶しています。

私は佐藤先生の答えに驚いたのですが、その理由は歌舞伎云々よりも、休憩中にいきなりやってきて質問した学生に対し、追い返したりせずきちんと知見を語ってくれたことでした。

それからずっと後、制作実習でドキュメンタリー作品が作られ、学校の講堂でその上映会が行われた時のこと。その内容は詳しくは思い出せませんが、ドキュメンタリーの登場人物がある切迫した場面に遭遇し、泣いたか、混乱したかして自室に戻るシーンがありました。取材のカメラがその人物を追わず、エレベーターに乗って帰っていくのを見送る場面があったので、私は不満に思い、上映後の質疑応答の時、どうしてあの場面でカメラは人物を追わなかったのか、と批判の意を込めて質問しました。ところがその後、最後に佐藤先生が講評を述べた時、いきなり私に向かって、ああいう場面ではカメラは人物を追ったりしないものだぞ、といった意味のことを話しました。

驚いたのはその後で、私が上映会の終了後、わずかな忸怩たる思いと共に外で仲間と煙草を吸っていたら、そこへなんと、佐藤先生がやってきたのです。私に対し、君はあの場面でカメラが人物を追うべきだと思ったのかも知れないが、カメラは何でもとにかく追えばいいというものではない、良識をわきまえず人のプライバシーにどかどか踏み込むのはドキュメンタリーじゃないんだ、といった意味のことを、優しく、丁寧に説明してくれました。

溝口健二は威張っていただけか

映画学校二年の時、私は新城卓監督に教わりました。やはり学年全体で制作実習に取り組み、新城ゼミでは1500フィートの劇映画をたしか二本制作しました。

上映会は各作品の上映後、上記のように意見や質問の時間が設けられ、締めに佐藤先生が講評を述べる形式で進められます。

どのような作品の時だったかは忘れましたが、最後の講評で佐藤先生は、昔の映画監督というのは、溝口健二も●●も××も、演技指導なんてせずただ威張っていただけでね、云々…と言いました。そして上映会が終わってゼミ室に戻った後、担任の新城さんが学生を集めての振り返りで、「評論家なんていい加減なんだよ。佐藤さんはああは言ったが、溝口健二がただ威張っていただけのはずがねぇんだ!」と言ったのが強烈に記憶に残っています。

私は溝口健二の作品の多くが好きで、俳優にあれほどの演技をさせるのは、たしかにただ威張っていただけではないだろう、と思います。しかしこの問題については事実がどうだったかを以て判定する他なく、私は未だに答えに到達していません。

佐藤先生は、とにかく学生の映画をよく褒めてくれました。先の溝口健二のことなども、学生を褒めるために引き合いに出したのかも知れません。私にとっては、佐藤先生と新城さんのどちらが正しかったかというのは、どうでもいいことのように思います。

佐藤先生の思い出、まだ続きます。