杉本純のブログ

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佐藤忠男先生の思い出3

卒業制作の思い出

今もあるのか分かりませんが、私が日本映画学校に学んでいた頃は、三年間の学業の総仕上げとして「卒業制作」という実習がありました。

私は武重邦夫さんのゼミで、韓国人留学生を主人公とする青春映画のチーフ助監督を担当しました。ところがこの作品は制作チーム内部でスタッフ同士が揉めまくり、チーム離脱者が続出するという事態に発展。崩壊寸前まで行った挙げ句、通常なら介入しない講師が介入し、離脱者が帰ってきて首の皮一枚でなんとかつながり撮影を終えるという、私の人生でも有数のタフな体験でした。

作品の学内上映は例によって講堂で行われました。私をはじめ、スタッフの多くはトラブル続きだった制作にすっかり憔悴し、上映後に一言ずつ話す時は、大変だったけどとにかく完成して良かったです、といったコメントをごく短く言っただけでした。

さて、これまた例によって最後の締めは佐藤先生の講評でした。

佐藤先生はやはり映画を肯定的に評価してくださり、「君たち、もっと自信を持っていい。胸を張れ!」といった言葉をかけてくれました。

ちょっとだけ、嬉しかったですね。

学校長として

佐藤先生は、学生映画のクオリティをプロの眼で評価するというよりは、学生の真面目さを肯定し、称賛することでモチベートしようとしていたのではないかと思います。

一年生の時にお世話になった佐藤武光先生は、映画評論家である佐藤先生は日本映画学校の校長になったら今村昌平の作品を批判できなくなってしまうが、それなのに校長の職を引き受けたのはよほどの考えがあってのことだろう、と言っていたと記憶します。私は、今村さんほどの人であれば、学校長にしてやったんだから俺の映画を批判するなよ、といった野暮な考えは持たないだろうし、佐藤先生もそんなことで批評の手を緩める人ではないと思いますが、日本映画が撮影所文化を失ってからというもの、いかに次代の映画人を育てていくかはともに憂慮していたことではないかと推察します。

今村さんは当時すでにご老体で滅多に学校に姿を見せませんでした(私が見たのは二度だけです)が、佐藤先生はすべての行事に必ず姿を見せていました。それだけ校長の仕事に精魂を傾けていたのだろう、と私は思います。

佐藤忠男という人を語るには、ベ平連とか鶴見俊輔とか、溝口小津黒澤大島今村、アジア映画アフリカ映画などなどなど、取り上げなくてはならないテーマが他に山のようにあります。このブログに綴ったのは、あくまで私記です。

私は卒業後も奇妙な形で日本映画学校と関わりを持ち、佐藤先生とも少しだけ、間接的に関わりました。それはまた別の機会に。

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小説「映画青年」(2)